東京オリンピックが名物「リーフパイ」を生んだ? 創業78年の喫茶店・銀座ウエストがたどった数奇な運命
ほどなくして、今も続く「風の詩」というしおりの原型「名曲の夕べ」を作り始め、1週間の演奏目録を書き込んだ。しおりの紙やデザインにもこだわり、日比谷の音楽祭の終わるころの時間を狙ったり、新橋のサラリーマンに配ったりすることで、次第に客も増えていった。
しおりの中でも傑作なのは、一般の人々から募集した詩やエッセイを、友人の友人であった女流文士の林芙美子氏に添削してもらうというコーナーを設けた点だ。これが大層な人気になったという。

店内のデザインもこのころから現在まで、基本的には変わっていない。日本初であろう、間接照明だけの柔らかな灯りをともし、背もたれの高い、ソファカバーのかかった椅子も、当時、友一氏が懇意にしていたデザイナーの意向を組み込みながら造り出したオリジナルである。今では、心落ち着くレトロな雰囲気を求めて、人はやってくるわけだが、その始まりはすべて、最初の店造りにかかっていたわけだ。
開店当初に出していたお菓子は今も続くロングセラーだ。クッキー類と、モザイクと言われるバターケーキ、ショートケーキ、ロールケーキなど、ほんの数種で量も少なかったため、喫茶室の2階で作っていたが、すぐに手狭になった。翌年には向かい側の土地を借り、工房として稼働。この工房からウエスト名物のリーフパイが生まれることになる。
“たかが喫茶店の親父”をやり抜くことの大切さ
経営はすっかり起動に乗ったと見て取れた。そこで友一氏はより大きなビジネスをと、欲を出す。新橋に紳士淑女の遊び場として高級パチンコ店を開いて、そちらも成功させるなど、商才を発揮した。ついには、学生時代から憧れていた新宿の「ムーラン」のような劇場を持ちたいという夢を実現すべく、1953年に五反田にオデオン座をオープンした。
しかし、劇場経営の経験もない若者(この時点で友一氏33歳)が成功できるほど、世間は甘くなかった。朝鮮戦争終結による景気の落ち込みも逆風となり、オデオン座は開館後一度も黒字を出すことなく、3カ月で閉館。さらに2軒のパチンコ店も前後して閉店となった。
そうこうするうちに、朝鮮戦争後の不況により、ついに本業である喫茶店経営まで行き詰まってしまった。親類からの資金援助の甲斐もなく、1953年、当時の金額で2800万円の負債を抱えて倒産することになった。「すべては私の不徳の致すところ」と平謝りに謝ったところ、君もまだ若いのだからと、逆に励ましてくれる債務者もあり、どうにか再建の道は開かれた。
しかし、不幸は重なるもので、心身共に疲れ果てた友一氏は結核を患うことになる。この療養生活は、友一氏のこれまでの生き方を振り返る、いい機会となったようである。
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