東京オリンピックが名物「リーフパイ」を生んだ? 創業78年の喫茶店・銀座ウエストがたどった数奇な運命
当時、祖父がハワイでレストランをやっており、好景気の波に乗っていたのだという。資金を工面してもらい、銀座の一等地に店を構えた。
料理長にはハワイから優秀な人材を、ベーカー(パティシエ)には叔父にあたる人間を同じくハワイから呼び寄せた。戦後すぐの貧しい時代、ぜいたくなものに飢えている人たちも一部いて、開業後ほどなくして人気店となった。
ところが、である、同年、「1人75円以上のメニューを禁止する」という、ぜいたくを規制する東京都の条例が出され、あえなく閉店に追い込まれた。料理長は安物の料理など作れないと、さっさと退職。ベーカーと初代社長の友一氏だけが残った。
銀座ウエストの原型は伊勢丹新宿店の裏にあった
そこで友一氏は喫茶店に目をつけた。ベーカーだけでもそれならできるだろうと……。
しかし、グリルから衣替えするにあたっても、「そんじょそこらの店とは違う」という、高級志向、本物志向は決して捨てなかった。大学時代にたまり場にしていた、伊勢丹新宿店の裏にあった「宿」という店が頭に浮かんだ。音楽はクラシックしかかけず、ウェートレスも女子大生だけを採用していた。現在のウエストとよく似ているが、どうも、そこをモデルにしたらしいというのは、現社長の龍一氏の言葉だ。
コーヒーの値段も当時1杯が10円くらいであったのを50円に設定。その代わり、甘味もサッカリンなどを使わず、本物の砂糖を使用した。ケーキ作りには欠かせないバターや小麦粉なども、可能な限り良質のものを入手すべく、ハワイのつてで駐留軍PX(基地内の売店)から闇で調達した。
とにかく本物志向を、というのが80年近く経つ今でも変わらない、大きな柱だったのである。

友一氏は、「宿」がそうであったようにクラシック音楽を聴かせることを1つの目玉にしようとした。そのために、グランドピアノをかたどったレコードプレーヤーを特注した。さらに夕方にコンサートタイムを設け、流す曲をプログラムに刷り、ナレーション付きで紹介した。また、そのころのSPレコードは3分半で終わるから、それを裏返すためだけの女子大生を立たせたという。なかなかのアイデアマンではないか。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら