東京オリンピックが名物「リーフパイ」を生んだ? 創業78年の喫茶店・銀座ウエストがたどった数奇な運命

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「たかだか喫茶店の一店主で終わりたくない、などと思い上がっていろいろやってみたが、“たかが喫茶店の親父”をやり抜くことが、いかに大変で大切なことであるか身に染みてわかった」と、後年回顧していたというから、これで本当に肝が据わったのであろう。

オリンピックがなければ定番商品にならなかった?

翌年無事退院し、店舗の再建に追われることになるが、戦後、経済も右肩上がり、経営は順調だった。麹町と青山(現在の青山店とは別の場所)に支店も出し、洋菓子店としての足場を固めていった。

もともとクッキーは出していたが、それをもう少し大ぶりにし、缶に詰めてドライケーキの名で売り出した。これが人気が出て、初めて日本橋高島屋の地下に売店をオープン。次第に伊勢丹や三越からも声がかかり、売店も順調に増えていく。

ロスの大きい生菓子に比べて、日持ちのするドライケーキがウエストの屋台骨を支えていくようになるのは、このときに始まったことなのである。

こうして順風満帆な経営を続けていたが、東京オリンピックが近づくにつれ、政府が駐車場の大幅増設を目指し、都内の各地で建設が始まった。銀座ウエストの付近一帯の地下がまさにそれにあたり、日々、騒音が激しくなっていった。

客足は激減。これはなんとかしなければという危機に面し、友一氏は他店でもドライケーキをお土産に使ってもらえないかと、近隣の料亭やクラブ、バーへ持って回った。

最初こそ疎まれたものの、次第に客からの需要が増し、人気を博していった。銀座ウエストといえば誰もが思い浮かべる、リーフパイやドライケーキをお遣いものに贈る習慣。これの基礎ができたのが、この駐車場工事に端を発したというのだから、商売、何が功を奏するかわからないものだ。

銀座ウエストの看板商品となっている「ドライケーキ」(撮影:今井康一)

また、一時期、さらなる売り上げの拡大を狙って、関西にも売店を広げようとしたことがあった。が、これがうまくいかなかった。百貨店を回ると、どこも一番端っこにおまけのごとく並べられているというのだ。それを見て、きっぱり、関西出店は諦めた。

ただ、これも後になって見れば、よかったといえる。なぜなら首都圏でしか買えないお菓子ということで、東京土産として箔がついたからだ。そのステータスは、今でも絶対的なものがある。

後編に続く)

小松 宏子 フードジャーナリスト

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こまつ ひろこ / Hiroko Komatu

祖母が料理研究家の家庭に生まれ、幼い頃から料理に親しむ。雑誌や料理書を通して、日本の食文化を伝え残すことがライフワーク。近刊に『トップシェフが内緒で通う店150』(KADOKAWA)。

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