「中東の近代化」日本との共通点で見えること 歴史を通して緊迫する中東情勢の今を考える
一般的に『エジプト誌』(Description de l’Égypte:1809~22年にわたって刊行)と言われている、イラストがたくさん載った調査報告書がある。たしかにフランスはエジプトに遠征して一時期占領したが、その際、200~300人程の学者を一緒に連れて行き、徹底的な調査を行なっている。
その記録である『エジプト誌』は、未だカメラ等で写真を残す手段がない時期に、すべて手描きでエジプトの自然から人間の習慣、風景等、ありとあらゆるものを当時の博物学的観点から図像として残したことで大変貴重である。
エジプトの植物や動物も徹底的に調査しており、さらには建物や風景、そして風俗・習慣に至るまで描写して記録を残している。エジプト人自身がそのような記録を残していないので、この調査報告書は、エジプト人自身にとっても、19世紀初頭のエジプトがどのようなものであったかを知る貴重な資料なのである。
なお、この調査で最もよく知られている発見がロゼッタ・ストーンであるが、この貴重な資料はフランスに持ち帰られ、その後、ヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシア文字の3種類の文字で刻まれた碑文はジャン゠フランソワ・シャンポリオン(1790~1832年)によって解読された。
西洋人による詳細な調査
日本では、19世紀前半はまだ鎖国時代であるが、長崎の出島で活動した人たちが記録を残している。最も有名なのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)である。
彼が最初に来日したのが1823年だったので、ナポレオンのエジプト遠征より20年ほど後だが、19世紀前半という意味ではほぼ同時代といってよいだろう。シーボルトはドイツ人であるがオランダの使節に紛れ込んで入国し、江戸にも随行しており、その際に資料を収集したようである。
最終的には日本の地図を持ち出そうとした「シーボルト事件」(1828)で追放処分になったものの、開国後の1859年に再来日を果たしている。彼が残した『日本博物誌』(1823)は、日本の当時の状況を知るための貴重な資料である。同じようなかたちで西洋の技術を使って現地を描写することが、エジプトでも行なわれたのだ。
だが、『エジプト誌』の方が、『日本博物誌』よりもはるかに組織的な学術調査に基づいている。
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