「中東の近代化」日本との共通点で見えること 歴史を通して緊迫する中東情勢の今を考える
旧勢力のマムルークを一掃し、徴兵制に基づく近代的な軍隊を編成し、また、それまでの徴税請負制度(イルティザーム制と呼ばれている)を廃止して、土地を国有化して綿花栽培を行なうとともに大規模な灌漑設備を整えたのである。このような改革は明治維新に先立つものだった。
バラバラだった言葉の統一
日本においては明治維新後、それぞれの藩(地域)によって言葉が異なっていたので、今で言う標準語を作る事業が行なわれた。同じようなやり方で、タフターウィーは帰国後、アラビア語のアカデミーの責任者として、標準語制定の事業に取りかかる。
日本語の場合、東京方言と長州方言を混ぜたものを標準語としたが、エジプトの場合、結局うまく行かず、いわゆる書き言葉である正則アラビア語、今風に言えば標準アラビア語(フスハー)と方言(アンミーヤ)とは乖離したままである。日本ではその後、言文一致運動が起き、二葉亭四迷以来、小説はすべて口語体で書くという流れになった。
エジプトでも同じような試みが行なわれたが、アラビア文字では方言の音をうまく表現できないこともあり、失敗した。ただ、アブドゥルラフマーン・シャルカーウィー(1920~87)というエジプト人小説家は、1954年に出版した小説『大地』をエジプト方言で書くという試みを行なった。
タフターウィーは、改革の初期の段階を担った。福澤の場合、直訳的なやり方ではなく非常に巧みに日本語に置き換え、日本の文脈に合わせたかたちでヨーロッパの思想を紹介した。
通常、このような旧弊打破の革新的な世俗思想や活動を啓蒙主義、あるいは啓蒙思想と呼んでいる。タフターウィーも、数多くの書籍をフランス語からアラビア語に翻訳した。その数たるや、1000以上という凄まじいものだ。エジプトにおけるヨーロッパ文明の受容の窓口となった最も代表的な人物である。
イスラーム自身が変わっていき、近代ヨーロッパの考え方(ヨーロッパにおける合理主義的な発想、理性と信仰を調和するような議論等)を受容できるような素地を作る役割を果たしたということで、タフターウィーは「近代主義者」と呼ばれている。
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