「気づきを邪魔する」認知バイアスを自覚できるか 「二酸化炭素の排出抑制は地球のため」は本当か?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

というのも、僕の父と息子がまったく同じ表情をするのだ。眉のひそめ方などの、ちょっとした表情がまったく同じ。一緒に住んでいるわけでもないのに、こんなところが似るなんて! しかも、僕を通り越して隔世遺伝するなんて! と驚いていた。

コロナ禍でオンラインの会議が増えた。写真ではなく表情の動く自分の姿を見て、僕は当たり前のことにやっと気がついた。父と息子が、隔世遺伝で似ているわけではない。僕と父が似ていて、僕と息子が似ているだけなんだ、と。

自分を観察の対象に入れるのは、本当に難しい

こんなシンプルなことに気づくのに、どれだけ時間がかかったことか。これまでもいろいろな人から、父と僕は似ていると言われてきたが、僕自身は、周りが思うほど似ていないと勝手に思っていた。自分の仕草は、動画で撮って見たりしない限り、その特徴を自分では認識できない。自分という存在を観察の対象に入れるのは、本当に難しい。

僕ら自身が観察する主体であるとともに、観察される対象の一部でもある。だから自分の存在を客観的に観察するのは難しい。それを実感する事例は他にもある。そこかしこで耳にする、「地球に優しく」という趣旨の自然保護の活動だ。

自然保護は大切だし、二酸化炭素の排出量を抑えることも大切だ。しかし、それは人間のために大切なのであって、地球のためではない。地球の長い歴史を見ると、動物だけでなく植物ですら、新参者だ。

ほとんどの時間、二酸化炭素に覆われていたのが地球にとっての「自然な」状態であり、新しい侵入者である植物によって、酸素という毒を撒き散らされているという見方もできる。もし、地球に意思や好き嫌いがあるとしたら、酸素に覆われている現状は不愉快なものと感じていてもおかしくない。

家の中が汚いときに、家がかわいそうだとは考えない。自分が家を汚したのだから、自分のために家をきれいにしようと思うだけだ。家であれば、自分の存在を意識して思考することができるが、対象が「地球」のように大きくなると途端に客観視することが難しくなる。「地球に優しく」という類いの言葉が使われるのは、地球に感情移入して、みんながやる気になるようにするための、マーケティング手法でしかない。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事