蔦重が演出「華やかな吉原」に潜む"遊女の悲惨" エンタメ化されても遊廓の本質は「風俗街」
蔦重は盟友である山東京伝(さんとうきょうでん)らとともに吉原を舞台にした流行の大人向け絵本である黄表紙や洒落本を、多数刊行します。また、勝川春章や北尾重政といった既に浮世絵界の重鎮である絵師とともに、吉原遊廓を美しく表現した絵本を出版しました。
寛政期に入ると、早くから目をかけていた喜多川歌麿の才能を見抜き、美人絵の作者として起用します。吉原の遊女をまるで、ファッション・スターのように描いて売り出したのです。
そうすることで、吉原遊廓は江戸庶民の流行文化の発信地となり、蔦重の出版物が売れるほど吉原のブランド価値も高まっていきました。黄表紙や洒落本、浮世絵を通じて巧みに吉原を演出し、これに惹かれた人々がこぞって吉原を訪れ、遊んでいく。まさに蔦重は吉原とウィンウィンの関係を築きました。
また、当時、戯作者の多くは下級の武士たちでした。基本的には原稿料は出ない趣味の範囲で、教養ある武士が戯作を書いていたのです。そうした戯作者を、自分の版元に繫ぎ止めるために、蔦重は吉原を活用しました。
このような武士たちは、基本的には家禄で食べていけるけれども、吉原で遊べるほどのお金はない人間たちです。蔦重は彼らを吉原の馴染みの茶屋に呼んで接待し、妓楼まで面倒を見たのでしょう。まさに作家を銀座の高級クラブで接待するようなものです。蔦屋から本を出せば吉原で遊べるとなれば、みんな蔦屋から出したいと思うわけです。
ですから、さまざまな意味で蔦重は吉原を利用し、活用していました。反対に吉原のほうも、蔦重の作る出版物によって、吉原自体の価値を高めることができた。蔦重が吉原の宣伝・広告を担うことで、吉原遊廓も賑わい、さらに発展していく。吉原との持ちつ持たれつの蜜月が、蔦重の生涯を通じて続いたのです。
加速化する「煌びやかな吉原」のイメージ
蔦重が売り出した出版物によって作られた、吉原の華やかで煌びやかなイメージは、それ以降もさらに加速していきます。
より幕末に近づくにつれて、女性連れの江戸観光も増えましたが、江戸見物の一環で、浅草寺の観音様を訪れたついでに吉原見物もするというのが定番の観光コースとなりました。吉原で遊ばなくとも、あくまで見物に来る。今で言うなら、東京見物に来たらディズニーランドに寄るようなものです。
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