藤原道長「この世をば」歴史的名句が誕生した裏側 祝宴に集まった公卿たち、即興で詠まれた名句

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

この時の道長の太政大臣就任は、後一条天皇の元服に備えたものでした。天皇の元服式において加冠役(元服の際に烏帽子をかぶらせる役目)を太政大臣が務めるのです。

太政大臣就任は、道長にとっても思いがけないことだったようですが、孫の元服にかかわる話だったため、嬉しいことであったはずです。

年が明けて(1018年)、元服式は行われ、道長は加冠役となり、無事に大任を果たします。道長は何か事があった後は、すぐに病気になってしまいますが、この時もそうでした。元服式の後、体調を崩しますが、2月上旬には体調も回復。そして、太政大臣を退くことになります。

この年の3月、道長の3女・藤原威子(20歳。母は源倫子)が、後一条天皇に入内することになりました。そして同年10月中旬、威子は女御から中宮となるのです。

威子の立后により、道長が三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて自分の娘で占めるという前代未聞の事態となります。

祝宴が開かれ、あの名句が詠まれる

立后の日(10月16日)、道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれました。盃が回り、絃歌が歌われます。

光る君へ 大河ドラマ 藤原道長
道長の邸宅、土御門第跡(写真: Hyper9 / PIXTA)

ほろ酔い気分の道長。道長は藤原実資(日記『小右記』の著者)に「我が子(頼通)に盃を勧めてくれないか」と頼みます。実資は仰せに従い、頼通に盃を勧めます。盃は頼通から左大臣、左大臣から道長、道長から右大臣へと流れていきました。

その後、道長は実資に再び話しかけます。「これから和歌を詠もうと思う。貴方にも応じてほしい」と。実資は「どうして私のような者が、応じられましょう」と遠慮します。その直後、現代の日本史の教科書にも載る道長の「名句」が詠まれるのです。

道長は「即興で詠む歌だ」と前置きしつつ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのでした。

「この世は自分(道長)のためにあるようなものだ。望月(満月)のように何も足りないものはない」

まさに栄華の絶頂の歌。実資は、道長の歌を聞き「何と優美な歌でしょう。これに応える術は私にはないので、皆で唱和致しましょう」と応じます。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事