藤原道長「この世をば」歴史的名句が誕生した裏側 祝宴に集まった公卿たち、即興で詠まれた名句
1016年の5月中旬には、道長の体調は幾分回復していたようです。「自らの人生に満足しているので、万が一のことがあっても、恨みはしない」と周りに語ることもあった道長ですが、はたしてそれは本心だったのでしょうか。孫(後一条天皇)の成長をもっと見たいと感じることもあったのではないでしょうか。同年12月上旬、道長は左大臣を辞任します。
翌年3月には、道長は摂政も辞任。子どもの頼通に引き継がれました。天皇の外祖父となった道長。その権威は摂政を上回るものであり、摂政に執着する意味はなかったのかもしれません。
また、自分が老齢となり病床に伏せる前に、子の頼通に政権を移譲し、その援護に回ろうという意志もあったと思われます。
1017年5月、病に苦しんでおられた三条上皇が、崩御されました。享年42。当時、疫病が流行っており、上皇の死因もそれではないかと言われていました。
道長もまたもや、病となっていました。そのため、上皇の葬送に参列できませんでした。
またもや自身の外孫が皇太子に
父・三条上皇の崩御が起因となり、その子・敦明親王は東宮を辞退されることになります。敦明親王が皇太子を辞退されたことで、新たな皇太子となったのが、敦良親王(9歳)でした。
一条天皇の第3皇子であり、母は道長の娘・彰子。これまた、道長の外孫なのです。天皇と皇太子が自らの外孫で占められたのだから、道長は歓喜したことでしょう。前皇太子の敦明親王は小一条院と号することになります。
さらに同年、小一条院は、道長の娘・寛子(母は源明子)と結婚します。こうしたことは、小一条院が東宮の立場にとどまっていたならば、困難であったでしょう。
小一条院が皇太子を辞退したことで、道長は小一条院を手厚く遇したのではないでしょうか。
さて、同年12月、道長は太政大臣に任じられます。太政大臣は、律令官制の最高官で、太政官の筆頭長官でした。しかし、常置されていたわけではなく、適任者がいなければ設置されませんでした。よって「則闕の官」とも呼ばれます。
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