東京に「座るにも金が要る街」が増えた本質理由 疲れてもカフェに入れず途方に暮れるあなたへ

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もちろん、この流れを否定するわけではない。治安や防犯の観点から考えれば当然の流れだろう。実際、チーマーが街を闊歩し、ジベタリアンが街を占拠し、公園には多くのホームレスがいたかつての渋谷に、治安の悪さを感じていた人は多いはずだ。

しかし問題は、その結果として、本来ベンチや広場が持っていた「座れる場所」「休める場所」の機能が著しく低下してしまっていることである。治安向上の目的が先走りすぎ、そもそも、疲れた時に気軽にベンチに座ったり、広場でたむろすることができなくなっているのだ。

五十嵐は、こうした排除アートの存在について「誰かを排除するベンチではなく、まさに誰もが座りにくいベンチ。そのことを問題にすべきだ」と指摘する(2024年4月10日「SNSで広がった「意地悪ベンチ」論争 排除の対象はホームレス?酔っぱらい?それとも…」/東京新聞)。

③ 日本人の意識の変化

もう1つの理由は、都市そのものというより私たちの意識の問題だ。日本の街が「座りにくい」のは、日本人の「周りからの目」を気にする性質もあるかもしれない。

渋谷にあるガードレール風ベンチ
渋谷にあるガードレール風のベンチ(のような何か)。腰掛けようと思えば腰掛けられるが、使っている多くが訪日客だ(編集部撮影)

今、渋谷の街にあるベンチに座るのは多くがインバウンド観光客だし、彼らはパルコ前にある階段、ガードレールかのような物体などにも腰掛けていて、貪欲に座るところを見つけている。彼らを見ていると、渋谷は決して座る場所がないわけではない。「いじわる」に、鈍感になることができれば、座ることはできるのだ。

ただ、こうした行為は日本人からは不評で、しばしばインバウンドに対する批判として上がるポイントでもある。

公共空間づくりについて語る際によく言われるのは、日本の都市には「広場」と言われるものがなく、広場慣れしていない、ということだ。確かに外国にあるように街の中心地の広場で休む、みたいなことを日本で想像するのは難しい。日本の駅前広場は往々にして閑散としている。その点、外国人のほうが、街中のスペースを使うことに躊躇がない感じがするのは確かだろう。

「広場化」に向けられる冷たい視線

しかし、かつて日本人は、空間を「広場」にすることに慣れていた。建築評論家の伊藤ていじは、日本の広場は「広場化することによって存在してきた」(都市デザイン研究体『日本の広場』/2009年・彰国社)という。

例えば、かつて新宿駅西口では「新宿駅西口フォークゲリラ」という反戦活動が大規模に行われたことがあったが、これも本来は駅の通路に過ぎない場所を「広場」のように使って行われたものだった。また、団地の通路なども広場のように使われている事例もあって、日本人が貪欲に空間を「広場」にしてきたことがわかる。

広場という空間が最初から与えられるのではなく、そこを広場のようにしていくのが日本人の特徴だったのだ。かつて渋谷にいたジベタリアンなどは、まさに広場化の典型例だったのかもしれない。

しかし、先ほども触れたような再開発の進展や防犯意識の高まりによって、こうした広場化のきっかけがなくなっていたり、抑えつけられているのではないか。実際、現在では地べたに座ることや、本来座る場所でないところに座る行為には厳しい目が向けられる。昨今のトー横キッズたちに対する厳しい視線もこれを表しているだろう。

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