道長も感極まる「一条天皇と敦成親王」感動の対面 その場に居合わせた紫式部。日記に記した内容
もし「そのときは、どのような感じだったのですか?」と聞こうものなら、筑前の命婦は、懐かしい思い出の数々から、涙をこぼしかねない状態だったからです。このような、めでたい日に涙を流されては「縁起でもない」と、皆、几帳を隔てて、放っておいたというのです。
縁起ではないという理由のほかにも、筑前の命婦に話しかけては、延々と思い出話を聞かされる「不運」にみまわれると思い、放置したのかもしれません。少し可哀想ではありますが。
管弦の演奏が始まり、宴もクライマックスに。
若宮の可愛らしいお声も、音楽とともに、紫式部の耳に届いていました。
右大臣が「楽の万歳楽が、親王様のお声にぴったり合って聞こえます」と言ったため、左衛門督が「万歳、千秋」(長生きを祝福し、いつまでも健康であるように祝う言葉)と唱えました。
道長も感極まり「以前にも行幸はあったが、どうしてあれしきのことを名誉と思っていたのだろう。こんなに願ってもない行幸もあったのに」と泣かんばかりに喜んでいたそうです。
紫式部は道長の言葉を聞いて「行幸の誉は、今さら言うに及ばないが、そのことを、殿(道長)ご自身がはっきり自覚しておられるのは素晴らしい」と絶賛しました。
そして帝が中宮の御帳台に入ってから間もなく、「夜が更けました。お帰りの輿を用意します」との声がかかります。
帝はお帰りになりました。後ろ髪をひかれる想いだったでしょう。この日、若宮は改めて新しい宮家として、認められたのでした。
紫式部は道長の栄華の輝かしさを記す
翌朝(10月17日朝)、帝のご使者が、朝霧も晴れぬ時刻にやって来たといいます。紫式部は寝過ごしてしまい、使者の姿などは見ることができなかったようですが。
その日、若宮の髪を初めて梳くということが行われたようです。道長もその妻(源倫子)も、数年来の願望がかない、ご機嫌な様子で、親王を可愛がっていました。その様子を紫式部は「その栄華の輝かしさは、2つとない」と描写しています。
道長の栄華も極まれりということでしょうが、いやいや、まだまだこれから。道長にはその後「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」と歌に詠むような幸運がやって来るのです。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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