道長も感極まる「一条天皇と敦成親王」感動の対面 その場に居合わせた紫式部。日記に記した内容
そうしたところに、紫式部らの耳に鼓の音が聞こえてきました。お迎えの船楽(楽人が船に乗って音楽を奏する)です。帝の行列がやって来た合図でもあります。
紫式部たちは慌てて参上しました。その様子を、紫式部は「カッコ悪い」と自嘲しています。
そうして紫式部は、帝の御輿が寝殿の階に寄せられるところを見ることができました。
御輿の担ぎ手に自らを重ねる紫式部
御輿の柄を肩に担いだまま、寝殿に向かう階段を登った担ぎ手たち。登り切った後は、柄を簀子(すのこ)に置き、うつ伏せになっていたそうです。身体を二つ折りにしたようなその姿は、紫式部には「とても苦しそう」に見えたとのこと。
そして、「私もあの担ぎ手と同じだ。何も違わない。女房という高貴な仕事でも、当然、やらなければならないことはあるのだ。少しも安穏とすることはできないのだから」と思ったそうです。仕事に対する認識を新たにしたということでしょうか。
紫式部は御輿を担ぐ男たちに同情しているわけではありませんが、生きていくための仕事は、身分の上下にかかわらず、人間、皆同じだということを紫式部は言いたかったのでしょう。
帝を迎える邸内は、威風を漂わせていました。中宮の御帳台(天蓋付きのベッド)の西側には、帝の玉座が設けられていました。
そして、いよいよ、父子ご対面です。道長が、生まれて1カ月ほどの若宮(敦成親王)を抱っこして、一条天皇の御前に現れます。
帝が我が子をお抱きになるとき、若宮は少しお泣きになられたといいます。その声は、とても可愛いものだったそう。
そんな中で、邸内ではさまざまな催しがありました。笛や鼓の音が流れるなか、日が暮れていきます。
夜になり、肌寒さを感じさせる頃になっても、帝は表着の下の袙(あこめ:中着)を2枚しか着られていなかったとのこと。そのお姿を見て、左京の命婦は気の毒に思っていました。
筑前の命婦などは「帝のご生母の故院(東三条院)がご存命の際は、この御殿への行幸は、しばしばございました。あのときとか、このときとか……」と昔話を始めそうな気配です。
その様子を見て、周りの女性たちは(相手にしたら、縁起でもないことが起こりそうだ)と思い、放っておいていました。
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