社会から背を向け、アウトサイダー的な生き方を唱える父からの“卒業”というテーマで、非常に参考になるのは旅行作家のポール・セロー原作の映画『モスキート・コースト』(監督:ピーター・ウィアー、1986)だ。
ハリソン・フォードが演じるアリー・フォックスは、9つの特許を持つ発明家で、ハーバード大学を中退した変わり者。長男のチャーリー(リバー・フェニックス)は、そんな父親を信奉していた。「僕は信じていた。父は絶対で、常に正しいと」。
アリーは、社会の欺瞞にうんざりし、家族を引き連れて中米のホンジュラスへ移住を企てる。何もない未開の土地で、新しい理想郷を創造することが目的だった。雇い主には「仕事をやめ、荒れ果てたこの国を後にする」などと書いた手紙を残して。
アリーは、学校教育を否定し、ジャングルで生きた知識を学ぶことを推奨する。最初は、土地の開墾や家屋の建築といったインフラ整備が順調に進み、生活が軌道に乗るが、武装した集団が迷い込んできたことで理想郷の崩壊が始まる。
チャーリーは、最終的にアリーの独断が家族の命を危険にさらしていることに気付き、アリーの暴走による被害を最小限に抑える立場におかれることになる。後半は、アリーが自業自得といえるトラブルに巻き込まれ、事実上の「父殺し」が完了する流れになっている(映画では瀕死のアリーとそれを見守る家族を描いて終わるが、原作ではアリーの死後の再出発までが生々しく描かれる)。
初めて父親とは異なる生き方を選び、地獄のようなジャングルからの脱出を図るのだ。チャーリーは、父親を妄信し追従していたが、彼も過ちを犯す一人の人間に過ぎないということを発見したのである。これは通過儀礼の典型でもある。
現代は大人への「通過儀礼」がない時代だ
神話学者のジョーゼフ・キャンベルとジャーナリストのビル・モイヤーズの対談集『神話の力』(飛田茂雄訳、ハヤカワ文庫)で、現代の社会では、「少年」が「おとな」になるという明確な時点が存在しないことが議論に上り、「これは親たる者にとって大問題」と指摘した。
キャンベルは、自身の子ども時代について、実業家の父親から跡継ぎ候補として2カ月ほど一緒に仕事をし、「だめだ、とてもこの仕事はできない」と思ったことを振り返る。そして「人生にはそういうテスト期間がある。自力で飛び上がる前に、どうしても自分をテストしてみる必要があるんでしょう」と述べた(同上)。
通過儀礼は、江戸時代に庶民の間に広がった髪や眉を剃る「元服」が分かりやすいが、共同体の内部の人々が、誕生から死に至るまでの節目で、次なる段階に進んだことを公認する一連のプロセスを指す。通常、分離(以前の状態ではなくなる)→過渡(どっちつかずの状態)→統合(新しい状態)の3段階で構成される。
その場合、この「テスト期間」は、まさに通過儀礼でいうところの過渡にあたるだろう。父親と一緒になってアンチとの闘いに明け暮れていたゆたぼんにとって、この時期こそが「テスト期間」であったのかもしれない。
「テスト期間」についてのモイヤーズとキャンベルのやりとりを見てみよう。
キャンベル 神話は物事を公式化して見せてくれます。例えば神話は、ある決まった年齢になったらおまえもおとなになるのだ、と教える。その年齢はまあ標準的なものでしょうーーが、現実的には、個人個人で大きく違います。大器晩成型の人は、あるところまで来るのが他人に比べて遅い。自分がどのあたりにいるのかは、自分で感じるしかない。(同上)
通過儀礼の視点から見れば、現代社会において、旅立ちの日を告知してくれる神話はもはやどこにもないが、「生きた教養小説としてのユーチューバー」は確かに存在している。「父殺し」のお手本をコンテンツとして提供してくれるのである。
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