60代半ば、都心から郊外へ「美学ある」団地暮らし 人生のアップダウンを経てたどり着いた「部屋」

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1960年代から70年代の高度経済成長期、日本各地で多くの団地が建設された。2024年現在、これらの団地は築50年以上を経ている。

メンテナンスの状況次第では老朽化が進んでいる建物も多い現状にあって、重松さんの団地は外壁が塗り直され、庭には野の花が咲いていた。各棟の間隔が広く、敷地内には公園もあるなど、ゆったりとした住環境だ。

「家に帰ってきて、土の匂いがするとほっとします。この街は私の育った場所で、13歳から26歳まで住んでいました。その後は港区の北青山や六本木にも長く住み、イタリアのミラノに住んだこともあります。いろいろな場所に住みましたが、60代後半になって地元に戻ってきたわけです」

窓から見える木々
窓からは木々のそよぐ様が。敷地が広いので隣棟からの視線を感じない(撮影:梅谷秀司)
スチールラック
スチールラックに並んだ籠や食器は、旅行で求めたものが多い(撮影:梅谷秀司)

重松さんは大学を卒業し、1980年代を社会人として生きた。バブルの好景気に恵まれ、充実したキャリアを重ねている。ここに住む前は家を購入することに興味がなく、ずっと賃貸で暮らしてきたという。

「かつて会社を経営していたこともあり、今でも商品開発アドバイザー、中小企業診断士、大学院講師など複数の肩書を持っています。そうしたキャリアのせいか、あるいはいつも旅をしたり、人を招いたりして楽しんでいるからか、順風満帆な人生だと思われがちですが、そんなことはないんです。実は50代で全てを失って、ゼロから再スタートしたことがあります」

バブル期以降のアップダウンを経て

重松さんの人生は波乱万丈だ。最初のキャリアは文化出版局、雑誌『ハイファッション』の編集者として。1カ月の残業時間が100時間を超える程のハードワークだったそうだが、バブルの時代ならではの、好景気のただ中でもあった。

「当時は仕事の合間に一流レストランで食事を取ったりもしたけれど、そこにいる誰かが払ってくれるような環境で、経費のことなんて気にしたこともなかったのです」

その後デザイン会社に転職し、新規事業開発に携わった。しかし婚姻関係にあったパートナーがデザイン提供などのファッション関連事業を起業し、その海外展開をサポートすることになる。

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