──日本外務省の職員が北朝鮮に常駐することはまれなケースではないでしょうか。
私が赴任する前の1年間は、外務省から約1カ月交代で延べ10人の職員が派遣された。その後、米韓両国から「日本も代表を常駐させるべきだ」との強い要望が出され、私が志願して98年に北朝鮮へ向かった。
──2000年までの2年間、当時の北朝鮮は自ら「苦難の行軍」と言うほどの、多数の餓死者が出た経済難の時期でした。
軽水炉の建設予定地は北朝鮮東部日本海側、琴湖(クムホ)という田舎だ。一般住民はこの地域に立ち入れず、われわれも近隣住民と話すことはもちろん、彼らの暮らし向きを見聞きすることもなかなかできない状況だった。それでも「苦労しているな」と感じることは多かった。
街路灯もないし、停電も重なって夜は真っ暗だった。平壌(ピョンヤン)から飛行機で琴湖にいちばん近い空港へ移動し、空港から建設現場近くの住居などがあるサイトに向かうと、到着は深夜にかかった。そのときに見た漆黒の夜は印象深いものだった。移動が夜間だったのは、外国人に国民の生活状況を見せないという意図もあったのだろう。
──食料など生活に必要なものはどう調達されたのですか。
2カ月に1回、食料などを積んだコンテナを運ぶバージ(はしけ)船が韓国から寄港する、という形で供給された。現地の食べ物を口にすることはほとんどなかったが、その一方で、日本産の缶ビールを飲んでいた。どうやって入ってきたのかはわからないが、現地のゲストハウスと郵便局に酒が飲めるバーがあり、現地の店員が出してくれた。
「1勝2敗のゲーム」
──北朝鮮側との交渉やトラブル解決のための話し合いでは、相当な苦労をされたようですね。
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