フワちゃんを社会的に抹殺した我々の逆鱗の正体 信用経済ならぬ「不信経済」はいかに形成されたか

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「世間」のもともとの意味を考えると、「世間」は「身内」と「アカの他人」の中間に位置づけられ、その狭い範囲内における日常規範でしかなかった。だが、前出の井上は、それが情報化によって著しく拡大したことに言及している。「『セケン』が『アカのタニン』ないし『ヨソのヒト』の領域へと浸透し、両者の境界がすこぶるあいまいになってきている」というのだ(前掲書)。

これは個人の言動が世界中に可視化され、「アカの他人」との距離を縮めてしまうインターネット、SNSの普及によってさらに加速した。「個人のいっさいの生活態度を規定しているかにさえ、見える」と評した「世間体」の意識が、時間・空間的な制約を超えて暴走するような側面が、テレビしかなかった時代よりも増しているといえる。人々は、おそらくほとんど無自覚なまま、スマホの画面からしきりと神経を逆なでされるようになったのである。

加えて、ここに絡んで来るのが、先の「あるべき日本人のモデル」からの逸脱という“事件”に限らない、自己の感情と時間というコストを費やした分のリターンを得られなかった負債感だ。

パリ五輪は、国家的なものである以上に国民的な祝祭行事であり、この期間だけ異様に盛り上がる「瞬間的で気まぐれなファンダム」が形成されたといえる。そのため、期待にそぐわない結果や期待を裏切られる場面が、あたかも投資を裏切る損失として計上されるのだ。

そこには、「コンテンツ」の消費者としての冷酷ともいえる構えが見え隠れする。五輪の競技は生身の人間が織りなす予測不能なドラマではなく、娯楽性の質が問われる「コンテンツ」として受容されている面があるのだ。

世間の問題を皆で考えるしかない状況になっている

ファンやオーディエンスにとって、「コンテンツ」は、安全な場所から観賞し、参加し、評価し、裁定できる暇つぶしなのである。テクノロジー・アントレプレナーのオリバー・ラケットとジャーナリストのマイケル・ケーシーが『ソーシャルメディアの生態系』(森内薫訳、東洋経済新報社)で述べているように、「コンテンツ消費者は劇の中で言えば、こちらに共感的な脇役にもなれば、完全な敵対者にもなる。どちらにしても、私たちと彼らとの相互作用が物語に肉づけをし、その印象を完成させる」からだ。

冒頭に取り上げた阿部は、「世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできない」とし、「昔も今も世間の問題に気づいた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。(略)しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっている」と警鐘を鳴らした。とりわけ「世間」と「コンテンツ消費者」の組み合わせは、感情的な負債感を理由にして、恐るべき人権侵害を引き起こしかねない。

わたしたちは、「世間」が野放図に広がる中で、対象化されない無数の規範、五輪だけではない「瞬間的で気まぐれなファンダム」といったものにもっと注意を払う必要があるだろう。

真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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