フワちゃんを社会的に抹殺した我々の逆鱗の正体 信用経済ならぬ「不信経済」はいかに形成されたか

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そもそも「世間」はあまり対象として認識されていない。空気のように存在しているからだ。けれどもその影響力は甚大だ。心理学者の井上忠司は、『「世間体」の構造 社会心理史への試み』(講談社学術文庫)で、 「世間体」は単に道徳規範的なものだけでなく一切の生活態度を規定するものと指摘した。井上が例に挙げたのは、農村評論家の大牟羅良(おおむらりょう)による「農村の世間体」(1953)という論文である。

大牟羅氏によれば、農村で「世間体がいい」ということは、つまるところ、ムラの習俗から逸脱しない行為を意味していた。逆に、「世間体が悪い」といえば、それは、ムラの習俗から逸脱した行為を意味しているのである。そんな「世間体」の内容は、たんに道徳規範的なものだけにとどまらない。物事にたいする好き嫌い、美醜の判定などにいたるまでをも、ふくむのである。極端にいうなら、個人のいっさいの生活態度を規定しているかにさえ、見えるほどであったという(同上)。

これは「世間」の内面化の表れである「世間体」を最も適切に言語化している。

井上は、さらに「これはなにも、農村にかぎったことではあるまい。程度において多少の差異はあるとしても、『世間体』は、都市にもごくふつうにみられる現象であることに、変わりはない」と述べている。

このような行動原理を模範的に実践する人物、仮想された標準的人間という規格から外れると、たちまち社会的な制裁を受けることになる。芸人のような人々も例外ではない。「習俗から逸脱」したキャラクターを面白がるところにすでに実は心理として「恥を笑う」のに似た社会的な制裁の萌芽がある。感情的な負債を糧にしているため、燃える場合は必然的に燃焼性は高くなる。

阿部詩選手の号泣は「醜態」なのか

ここで興味深いのは、キャラクターだけでなく、一時的な言動にもこのメカニズムが見い出せる点だ。パリ五輪で話題になった選手に対するバッシングが典型といえる。柔道女子52キロ級の2回戦で敗退し、号泣した阿部詩選手が好個の例だろう。

ここでは、負けた後に「人前もはばからずに号泣する」行為が社会的な制裁を正当化する根拠になっている。その深層にあるのは、仮想された標準的人間、つまり「あるべき日本人のモデル」から逸脱する「醜態をさらした」という論理である。日本人の名誉を傷つける「恥辱」に映ったのである。それは、感覚的にはまるで「アカの他人」の前でそそうをした「身内」を叱り飛ばすかのような仕草にも見えた。 

だが、例えば、フランスの日刊紙「フィガロ」は、ドラマティックな一場面として報道しており、不名誉な態度という見方はしていない。

小見出しには、「フランス国民が共感と優しさで寄り添った力強い瞬間」とあり、続く記事には「阿部詩は必死に立ち上がり、伝統的な作法で相手に頭を下げ、畳を離れ、そして……泣き崩れた。トレーナーの腕の中で、この日本女性は長い間その状態を保ち、突っ伏し、体を丸め、痙攣し、悲しみを叫び、涙の奔流を止めることができなかった。それは力強い瞬間であり、フランス国民は共感と優しさをもって彼女に拍手を送った」とある。

それから「大会は一息をつく機会を得た。偉大なチャンピオンが、まさに野心的な名誉の舞台に倒れたのだ。 24歳の彼女がさらに強くなって戻ってくることに疑いの余地はない。成長するためには時には転ぶことも必要だからだ」としめくくっている(“JO - Judo : entre cris et pleurs, la détresse totale de la championne olympique Uta Abe”2024年7月28日/Le Figaro)。

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