対話の現場/不確かな時代における若者のための対話論

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一般に「一体となって」「共通の目標を目指す」というと、同調圧力ばかりが目立ち、対話的発想はカケラもないように思われがちだ。だが、人間が集まって何かをしようとするかぎり、必ず対話的な要素がある。それを活用するか、それとも圧殺するかの違いなのである。

自分らしさを求めると自分らしくなくなる

ある学生は「自分らしさを追求したい」と言う。自分のやりたいことを自分のやりたいようにやってこそ、自分らしいというのである。

なるほど。言いたいことはよくわかる。だが、まず現実問題として、社会においてやりたいことをやりたいようにできるものか?

たとえば本連載にしても、好き勝手に書いているようでいてさまざまな制約の下で書いている。

テーマは「対話」。何を書くにせよ、広い意味で対話に関連づけて書かなければならない。

対話について好き勝手に書いてよいわけでもない。本誌の読者を想定しながら書くのである。

「今回は小学生向けに書きました」と言っても、本誌の読者に小学生はいないだろうから(たぶん)、それがどれほどよい内容であったとしても、決して許されないだろう。

しかも、必ず16字×177行で書かなければならない。あと10行増やせばもっとよい内容になるのに、と言ったところで無駄である。

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