「虎に翼」のモデル"三淵嘉子"人生支えた父の一言 知人は進路を話すとドン引き、家族の反応は?

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三淵嘉子は1914(大正3)年11月13日、台湾銀行に勤務する父の武藤貞雄と、母のノブのもとに、父の赴任先であるシンガポールで長女として生まれた。

父がシンガポールからニューヨークに転勤になると、嘉子は母のノブとともに1916(大正5)年に帰国。ノブの実家に身を寄せて、香川県丸亀で幼少期を過ごす。帰国の年には、嘉子の弟で、長男となる一郎が誕生している。

家族が東京でそろったのは、それから4年後の1920(大正9)年のこと。父が東京勤務を命じられたタイミングで、4人家族として渋谷区で居を構えている。

嘉子は渋谷区の幼稚園に入園し、その翌年には、青山師範学校附属小学校へと進学。下には弟が次々と生まれ、4人の弟たち(長男:一郎、次男:輝彦、三男:晟造、四男:泰夫)と一緒に、両親のもとで学生時代を過ごすこととなった。

法律を学ぶことを決めたのは、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大附属高校)を卒業してからのことだ。女性も法律を学べるという、明治大学専門部女子部法科に進学しようと、嘉子は卒業証明書をもらうために母校を訪ねた。

ところが、「法律を学ぶために明大の受験を考えている」と言うと、受け持ちの先生からは思いとどまるように何度も説得されたという。なんとか納得してもらい、卒業証明書をようやくもらえたかと思えば、今度は故郷に戻っていた母が帰京して大騒ぎに。

「法律などを勉強しても、将来あてになるわけでもないし、嫁の貰い手がなくなるだけ」と泣きながら、反対されてしまった。

ただ女性が法律を学ぼうとしただけで、周囲が激しく動揺する……。嘉子が生きたのは、そんな時代だったのである。

友人には「こわいなあ」とドン引きされる

女性が法律なんて学んでいったい、どうするというのか――。

明治大学に入学してからも、知人に会って事情を話せば、奇異な目で見られたようだ。嘉子は「私の歩んだ裁判官の道」で、当時のことを次のように振り返っている。

「知人に出会ったとき今どうしているのかを聞かれ明大で法律を勉強していると答えると、とたんに皆一様に驚きあきれ、何という変わり者かという表情で『こわいなあ』と言われるのにはこちらが参ってしまった」

そんな経験をして以来、嘉子は「他人には法律を勉強していることは言うまい」と心に決めたのだという。

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