今の感覚では大学野球はプロへの登竜門という感じだが、長嶋が在籍していた1950年代まで、東京六大学はプロ野球と肩を並べる日本のトップリーグと思われていた。「プロと東京六大学、どちらが強いか」みたいな議論がまじめに行われていたし、新聞のスポーツ欄では、東京六大学のほうが扱いが大きいこともしばしばあった。
長嶋茂雄はその東京六大学のトップスターであり、その進路に全国のファンが注目した。立教大学の先輩で、南海ホークスの外野手だった大沢昌芳(のち大沢啓二、大沢親分)のスカウトで、長嶋はエースの杉浦忠と共に南海入りが決まりかけていた。しかし直前になって、長嶋の兄に強く働きかけていた巨人への入団が決まる。
最高のデビューをした長嶋
巨人や西鉄の名監督として知られた三原脩は、当時、巨人の本拠地球場だった後楽園球場の株を所有していたが、長嶋の入団が決まったとたん、後楽園の株が急騰して驚いたという。
「長嶋茂雄巨人入り」は、全国の野球ファンにとって注目のニュースとなり、1958年春のキャンプ地の兵庫県明石には多くのファンが詰めかけた。
ルーキーイヤーに長嶋茂雄は、29本塁打で本塁打王、92打点で打点王、そして打率は.305で2位。あわや新人で三冠王という空前の活躍をする。新人で打撃タイトルを取った打者は、これ以外には翌1959年に大洋の桑田武が31本で本塁打をとった例があるだけ。長嶋茂雄は今に至るも最高のデビューをする。
この年の11月、皇室会議は皇太子(現上皇)が翌1959年4月のご成婚を発表。日本人は皇太子ご成婚の放送を見ようとテレビの受像機を先を争って購入、テレビの普及率が急増したが、そのテレビで、巨人の長嶋の縦横の活躍の模様が放映されたのだ。
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