大規模災害下での弱者 避難所や仮設住宅にも「災害弱者」の視点を
「マルフク」に入所した人の多くも、それまでは小中学校の体育館などの狭いスペースに寝かされていた。すし詰めの中でのおむつの交換に家族は疲労困憊(こんぱい)し、認知症高齢者をめぐるトラブルも絶えなかった。それだけに、福祉避難所での受け入れは家族の窮地をも救った。
仙台市宮城野区蒲生の自宅が津波に遭い、住む所を失った片桐幸夫さん(66、写真中央)も「マルフク」で3カ月近くを過ごした。片桐さんは宮城野の里のデイサービスを利用していたさなかに震災に遭い、津波で帰る家を失った。ケアハウスの食堂のスペースにベッドを置くことで急きょ開設された福祉避難所で、命からがら津波を生き延びた妻の光子さん(61、同左)とともに生活を送った。
脳卒中の後遺症で体が不自由な幸夫さんにとって指定避難所での生活は事実上不可能。しかし、デイサービスのさなかでなかったならば、いったんはすし詰めでの避難所生活を余儀なくされていた可能性が高い。現に多くの高齢者は小中学校などから「マルフク」に移ってきた。
福祉避難所の運営には、支援スタッフの確保も必須だ。宮城野の里の場合は、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)や「21世紀・老人福祉の向上をめざす施設連絡会」の呼びかけで200人近い支援者が全国から集まった。宮城野の里を運営する宮城厚生福祉会の海和隆樹法人事務局長は「全国からの支援があったからこそ、福祉避難所を維持することができた」と振り返る。3カ月の長期休職を認められて沖縄県から駆け付けた相馬由里さん(同右)は、片桐さん夫妻をはじめとする利用者にとって心の支えになった。
もっとも、仙台市のように多数の福祉施設をあらかじめ福祉避難所に指定していた自治体はまれだ。2010年3月末時点で福祉避難所を指定していた全国の市町村は34%にとどまる。今回の震災で被害が大きかった岩手県では指定率はわずか15%。福島県では19%、宮城県でも40%にすぎなかった。震災後、外部からの人的支援を受けることで、ようやく福祉避難所の開設にこぎ着けた自治体も少なくない。