台湾有事は避けられるか「百害あって一利なし」 「現状維持」を望む台湾の人々が大多数の現実

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「外省人」の横暴に対し溜まっていた「本省人」の怒りは1947年2月27日台北で専売局員が煙草売りの女性を銃床で殴って負傷させ、それを取り囲んで抗議した民衆に発砲、1人を死亡させたことで爆発、大暴動になった。

翌28日、日本軍歌「天に代りて不義を討つ」を合唱する大デモ隊が専売局に乱入すると憲兵が発砲し6人が死亡、少数が負傷した。デモ隊は放送局を占拠し日本語で全島に蜂起を呼びかけた。3月3日以降は武装反乱になり、一部では国民党軍を降伏させた。

だが、まだ大陸に残っていた国民党軍部隊が台湾に上陸、機関銃を撃ちまくって14日までに鎮圧した。

その後、「危険人物」と見られた親日的な台湾人指導者、知識人、学生などの大量検挙が行われ、裁判なしに処刑されたのは2万8000人とされる。人口調査では行方不明者が11万人もいるため、亡命者を除いた約10万人が死亡したとの説もある。

蔣介石政権は暴動後全島に戒厳令を敷いて反政府派と見られた者約14万人を投獄して拷問、3000人ないし4000人を処刑した。それらは共産党のスパイとして検挙したが台湾独立派も多かったようだ。

38年にも及んだ戒厳令

「本省人」は1949年に敷かれた戒厳令が1987年に解除されるまで、官憲による「白色テロ」に怯えて生きてきた。アメリカ軍は1979年まで台湾に駐留していたが、この人権問題を制止しなかったようだ。 

当時台湾の人口は600万人だったが、最終的には120万人の「外省人」が流入した。蔣介石が台湾に連れてきた将兵、役人、家族、従者などの「外省人」とその子孫は、今日台湾の人口の約13%と言語学者は判断している。

台湾に流入した「外省人」は並みの難民ではなく、占領軍のような権力を振るい、軍人だけでなく、官吏、公的企業職員、教師などの席には「外省人」が就いた。

特に新聞、ラジオは閩南(ビンナン)語と日本語しか使えない「本省人」は勤務できない。「今もメディアは『外省人』の砦(とりで)」と言う「本省人」もいる。官職に就けなかった有能な「本省人」は民間企業を興し、苦労の末に成功した経営者は主に「本省人」を雇ったから、「経済界では『本省人』が優勢」とも聞く。

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