スタバで「フラペチーノ」飲む人が知らない"真実" コーヒーじゃない「看板商品」を持つ凄さとは?

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考えてみてほしい。ほかのカフェチェーンでこのように特別なイメージを見いだせる店があるだろうか。そもそもチェーンストアは、「そこだから行く」店ではなく、「そこでいいから行く」店だろう。わざわざチェーンストアに好んで行く人はあまりいない。カフェチェーンだって同じである。街にたまたまあって、たまたま時間を潰したいから、なんとなく入るのである。

でも、

「スタバに行きたい」

という言葉を、人は変だと思わない。スタバには、そう思わせるだけの「特別感」があるからだ。

筆者はチェーンストア研究家としてこれまでいくつかの書籍を出版し、チェーンストアについて消費者の視点から考えてきた。その知見からみても、スタバがこのような「特別感」を持っているのは非常に稀有なことだと思う。

本連載で私が向き合いたいのは、この「特別感」である。

スタバが抱える「矛盾」とは?

ここで私は指摘したい。スタバの「特別感」とはそこに存在する「矛盾」にあるのだ、と。スタバは「矛盾」した存在で、それこそが、その不思議なカフェを考えるヒントになる。これを明らかにするために、少しだけ脱線した話をしたい。

かつて、「木更津キャッツアイ」というドラマがあった。この作品は2002年に放送された宮藤官九郎のテレビドラマで、題名のとおり、千葉県木更津を舞台にした青春群像劇だ。この中のセリフがとても興味深い。ヒロイン的存在である酒井若菜演じるモー子は、神社でこうお祈りする。

「木更津にスタバができますように!」

このセリフは、スタバが持つイメージが詰まっている。それをはっきりさせるためには、例えば、このセリフをこう変えてみるとわかりやすい。

「木更津に吉野家ができますように!」

たぶん、こう願う人はいないと思う。やはり、このセリフはスタバでなければならない。

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