キレやすい間寛平を忍耐ランナーにした「お告げ」 M-1創設者が明かす「異質な天才」の仰天秘話

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寛平さんと言えば、日本テレビの24時間テレビの恒例となった100キロマラソン(寛平さんは200キロでした)、神戸から武道館まで走った600キロマラソン、世界一周アースマラソンなどが有名だが、昔からランナーだったわけではない。

そのきっかけはなんと、夢を見たからだという。寛平さんは、瀬古選手を追い抜いてすいすいと気持ちよく走っている夢を見たそうだ。そのことを池乃めだかさんに話すと、「それは走ってみろという神さんのお告げやないか」と言われたのがきっかけだ。

それから寛平さんは走り出した。

「4時間を切ったらギャラを倍にしてやる」

青梅マラソン(ハーフ)から始まり、ホノルルマラソンで初めてフルマラソンに挑戦した。このとき寛平さんは4時間を切ったらギャラを倍にしてやるという会社との約束を見事に果たし、ギャラが倍増した。まあこれは寛平さんに言わすと、元が安いから大したことないらしいが。

そのときの記録が3時間13分57秒。初めてのマラソンで出した記録としてはすばらしいものだ。その後、何度もフルマラソンを走ることになる寛平さんだがなかなかこの記録を抜くことができなかった。

そしてついに1998年ラスベガスマラソンで3時間8分42秒というすばらしい記録を出した。惜しくもサブ3(3時間を切ること)にはならなかったが、素人ランナーで、しかも48歳の記録としてはたいしたものだ。

国内外のマラソン大会、ウルトラマラソンにもよく出た。ホノルル、メルボルン、香港、ゴールドコースト、ラスベガス、大連などのマラソンレース、アトランタのオリンピックのマラソンコースも本番前に走った。245キロを走るギリシャのスパルタスロン、走る以外にカヌーや登山もあるレイドゴロワーズという過酷なレースにも出た。

しかし、なんといっても走る寛平さんをイメージ付けたのは日本テレビの24時間テレビだろう。

ぼくが24時間マラソンに初めて付いたのは2回目の挑戦の1993年である。

前年に苗場からスタートしたときは、テレビカメラが生放送でずっと追っかけたものだから、テレビを見ている人がコースを予想してどんどん押し寄せてきて、寛平さんが走ってくるのを待ち構えていた。

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