阪急西宮北口、「球場の街」の記憶を残す住宅都市 オリックスの前身、阪急ブレーブスの本拠地
球場は駅からの好アクセスも魅力だったが、全席がホームベースを向き、スタンドの傾斜を緩やかにして見やすい設計になっていたことが大きな魅力だった。さらに国内初の2階建てスタンドで内外野が全面天然芝だったことも画期的とされた。
当然ながら観客からも「プレーが見やすい」と好評で、阪急も“行きよい球場 見やすい球場”をキャッチフレーズに集客を図った。生前、小林は「私が死んでもタカラヅカ(宝塚歌劇団)とブレーブスは売るな」と繰り返した。球場の設計は一例にすぎないが、小林がプロ野球の実現を本気で考えていたことをうかがわせる。
こうして西宮北口駅界隈には、小林の独創による新しい西宮が形成されていく。しかし、小林は1932年に株式会社東京宝塚劇場を東京・日比谷に設立して、活動の軸足を関西から東京へと移しつつあった。そうした事情もあり、小林による新しい西宮は未完成のままとなり、その間に日中戦争が開戦する。戦争により、社会から娯楽を楽しむ余裕は喪失し、西宮北口駅の開発も止まってしまう。
団地建設に始まった住宅都市化
再び西宮北口駅周辺に動きが現れるのは、兵庫県営西宮北口集団鉄筋アパートを中心とする団地群が造成されていった1948年あたりだろう。西宮北口駅周辺に建設された団地群は、戦災復興および戦災土地区画整理事業に伴う住宅建設の一環で、西宮北口集団鉄筋アパートは当時には珍しかった鉄筋コンクリート造による集合住宅となった。
西宮北口集団鉄筋アパートは市有地が不足していたことから、阪急(当時は京阪神急行電鉄)が社有地を提供。阪急の協力もあって、西宮北口駅の周辺には県営18棟、住宅協会が建設し西宮市が管理するアパートが18棟、さらに社宅15棟の全51棟が建設された。次々と集合住宅が建設されたことで、西宮北口駅周辺は再び住宅地の様相を濃くしていく。
戦災復興が一段落して高度経済成長期へと突入すると、各地では産業を誘致する動きが活発化した。特に製造業の工場などは地方都市から引く手あまただった。西宮市も石油コンビナートを臨海部に誘致する動きがあったが、西宮のきれいな水が汚染されることを懸念した市民を中心に強い反対が起こり、計画は頓挫した。
以降の西宮市は工業都市ではなく、住宅都市・文教都市を目指す方針へと切り替えていく。とくに神戸線と今津線が交差する西宮北口駅はアクセス至便な駅として重要性を高め、その閑静な住環境とも相まって注目された。
住宅都市として街が発展する一方、西宮北口駅は神戸線と今津線の線路は直角に平面交差する、いわゆるダイヤモンドクロッシングがあり、それが運行に支障を及ぼすようになっていた。今津線の開業当時から、神戸線の運転本数は決して少なかったわけではない。阪急はなんとかダイヤをやりくりして対応していたが、ラッシュ時の神戸線は10分間に10本、今津線は3本という過密ダイヤが組まれていた。
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