阪急西宮北口、「球場の街」の記憶を残す住宅都市 オリックスの前身、阪急ブレーブスの本拠地
そして今津線が全線開業する1926年頃になると、ようやく西宮北口駅の周辺にも住宅地開発の波が押し寄せる。まず日本ペイントが1927年に昭和園と名付けた住宅地を駅北西で開発した。しかし、昭和園は西宮北口駅からは距離があったことから人気の住宅地にはならなかった。また、一帯は排水機能が不完全で、戦後に河川改修されるまでは長雨で浸水被害に見舞われることも珍しくなかった。
その昭和園に続き、西宮北口駅周辺に甲風園と呼ばれる住宅地が造成される。当初は駅の北西に造成される計画だったが、甲風園は阪急直営の住宅地だったために人気に火がつき、駅の北西だけでは敷地が足りず、東側にも甲風園が造成された。それでも敷地が足りず、神戸線南側にも拡大する。
こうして西宮北口駅を取り囲むように、約2万5000坪にもおよぶ甲風園が誕生する。甲風園は西宮市域最大の住宅地になる。周辺が住宅地として開発されたこともあり、西宮北口駅は大阪・神戸のベッドタウンとしての一面を持つようになる。
小林一三のプロ野球構想
しかし、小林は西宮を大阪・神戸のベッドタウンで終わらせる気はなかったようだ。おりしも日本ではプロ野球の立ち上げ議論が盛り上がりを見せていた時期だったが、当時の野球は大学生や高校生が余暇で楽しむ競技であり、ビジネスとして野球が成立するとは誰も考えていなかった。
だが、小林は以前から鉄道各社が集客の一環としてプロ野球チームを結成し、自社沿線に構えた球場で試合をすることを構想していた。鉄道の集客に野球を活用するというアイデアだが、この方法なら鉄道の増収分と球場の入場料収入で選手の給料を捻出できると考えたのだ。
小林の構想は電鉄リーグと呼ばれ、小林は自社のみならず阪神や近畿日本鉄道・南海鉄道(現・南海電鉄)・京阪電鉄にもチーム結成を呼びかけた。電鉄リーグは時期尚早として実現しなかったが、1936年にプロ野球が発足。小林は早々に参入を表明し、阪急軍(後の阪急ブレーブス)の本拠地として、西宮北口駅に直結した駅上球場の建設を目指した。駅と球場が直結していれば、集客でも有利になる。しかし、駅周辺は阪神電鉄関連の企業が土地を多く所有していたこともあり、当然ながらライバルを利することには非協力的だった。
それでも、小林は西宮北口駅の一帯に球場をつくることを諦めなかった。駅上にはならなかったものの、1937年に駅から徒歩数分の位置に西宮球場が竣工した。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら