阪急西宮北口、「球場の街」の記憶を残す住宅都市 オリックスの前身、阪急ブレーブスの本拠地
箕面有馬電気軌道は現在の阪急宝塚線・箕面線を1910年に開業しているので、そこから逆算すると、すでに創立者の小林一三はその頃から大阪―神戸間への進出をある程度考えていたと推察できる。
灘循環電気軌道の計画を見れば明らかなように、大阪―神戸間において西宮が最重要都市と目されていた。なぜ、西宮が最重要都市と見られていたのか? 阪神間は酒造りが盛んで、とくに灘五郷と呼ばれるエリアには多くの蔵元が集積した。灘五郷の中でも、西宮郷は宮水の採水地だったことから中核的な地位にあった。
酒造りには良質な水が欠かない。宮水は酒造りに理想な味・成分だったことから、蔵元はこぞって宮水を求めた。西宮は“銘酒のまち”と認識されるようになり、市民も行政も、そして他企業も酒造りに対して一定の理解をする。
蔵元が美味しい水を求めるのは現代においても変わらず、また西宮にとって水が重要であることも変わらない。それを端的に表したのが、1970年代から計画が進められていた阪神本線の高架化事業だった。阪神の高架化事業は、間に阪神・淡路大震災という震災を挟んでいるものの30年以上もの長い歳月を費やしている。そこまで長い歳月を要したのは、工事で宮水を汚染しないよう慎重な配慮が求められたことにある。
一方、阪急の西宮北口駅は山側に線路を敷設し、古くから栄えた西宮の中心部からは遠かった。それでも阪急が神戸線を開業させたことで、阪神の西宮駅、官営鉄道の西ノ宮(現・西宮)駅、そして阪急の西宮北口駅の3駅が西宮の玄関駅として覇を競うことになる。
と言いたいところだが、旧来の中心地に近い阪神の西宮駅に、後発で中心地から遠い阪急が立ち向かえるはずがなかった。
神社参詣者は取り込めなかったが…
阪神の西宮駅は、全国に約3500社あるといわれるえびす神社の総本社とされる西宮神社の最寄り駅でもある。西宮神社では毎年1月10日前後に十日えびすという祭事があり、全国から多くの参詣者を集める。阪急も西宮神社の参詣者を取り込むべく、西宮北口駅―夙川駅間に西宮戎駅という臨時駅を開設していたことがある。それでも阪神にかなうわけがなく、西宮戎駅はひっそりと廃止されている。
そんなハンデを負う阪急は大阪―神戸間の移動に特化し、阪神よりも駅数を3分の1に減らして高速運転を実施。阪急は大阪―神戸間の所要時間で優位に立つことで並行する東海道本線や阪神から利用者を奪おうとしたため、途中駅を増やすことは難しかった。
そうした事情も神戸線沿線の宅地化を遅らせる一因になったが、翌年には西宝線(現・今津線西宮北口―宝塚間)が開業。これが沿線開発の呼び水となり、翌1922年には同線に甲東園駅が開業。駅周辺は住宅地として開発され、同駅から西宮北口駅を経て大阪や神戸に向かうという動線が生まれた。
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