関ヶ原迫る中「家康が1カ月も江戸滞在」深まる謎 家康の狙いは何か?気になる毛利輝元の動向

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毛利領国と接する伊予国に軍勢を送り込んだり、阿波徳島を占拠したり、九州北部の情勢にも介入したり、次々に他国に手を伸ばしている。混乱に乗じて、自らの権益・領国増大を図ろうとしているように見える。

そのような状況の中、家康は依然、江戸にいるのだ。8月13日、家康は福島正則・浅野幸長・池田輝政・細川忠興・黒田長政ほか諸将に「尾張・美濃の様子を知りたいので、村越直吉を尾張清洲に派遣する。それぞれ相談のうえ、返事するように。自身(家康)の出馬については準備している」との書状を送る。

同月16日には、出馬を要請する福島正則の書状を見て、黒田長政や細川忠興らに「出馬を油断なく準備しているので、安心するように」と書き送っている。それでも家康はまだ出陣しない。これはなぜなのか。

1つには、背後の敵を気にかけたということもあるだろう。会津の上杉氏やそれに力を貸す常陸の佐竹氏の動向を気にしていたのだ。彼らは家康が江戸を離れると、徳川領国に攻めこんでくることも十分考えられる。その備えとして、城郭の修築などが必要であった。

一方で諸大名に加勢を求める書状を発するため、江戸にいたのではないかとの説もある。しかし、書状の作成だけならば、西上の途上でもできることであり、これは江戸滞在の納得できる理由ではない。

家康は豊臣系武将を信用していなかった

2つ目の理由であり、かつ最も大きな理由と考えられているのは、先に西上した豊臣系武将の裏切りを恐れていた説だ。家康の指示に従うとした小山評定であったが、家康はその豊臣系武将たちを心底から信用していなかったというのだ。

最初、大坂方の挙兵は、石田三成や安国寺恵瓊など限られた人によって企てられたものとの認識だった。

それが、しだいに変化し、豊臣奉行衆もこれに同調。「豊臣秀頼様への忠節」を主張して、家康追討を呼びかけたのだ。

小山評定が終わり、豊臣系武将が西上の途についた頃(7月29日頃)になって、豊臣奉行衆の家康弾劾状(内府違いの条々)が家康のもとに届けられ、家康は情勢が変化していることを知る。

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