関ヶ原迫る中「家康が1カ月も江戸滞在」深まる謎 家康の狙いは何か?気になる毛利輝元の動向
8月4日には、池田輝政、九鬼守隆、細川忠興、加藤嘉明らに書状を送り、先陣として井伊直政を派遣することや、自身(家康)の出馬以前は直政の指示に従ってほしいということを伝えている。
5日には、福島正則に宛てて「池田輝政、藤堂高虎、井伊直政を出陣させたので、談合してほしい」と書状を出している。
そうした中、家康が心配していたのが、毛利輝元の動向であった。中国地方を支配し、百万石を超える所領を持つ輝元が家康方につかないとなると、やっかいだからだ。
輝元は7月17日に「内府違いの条々」(家康弾劾文)が三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)によって発せられると、すぐに広島を発ち、大坂城に入城(7月19日)している。
輝元の養子・秀元は、7月17日には、大坂城西の丸を軍勢をもって占拠していた。これは輝元を迎えるための準備と思われる。時代劇などにおいては、毛利輝元はしぶしぶ西軍の総大将になって、石田三成らに祭り上げられたように描かれることもあるが、実際の行動を見ていると、そうではないことが明らかとなる。
まず「内府違いの条々」が発せられてから大坂入城までの輝元の素早い動き。これは、輝元が「反家康」の石田三成派と連絡を取り合い、いざというときのために備えていたことを示している。
その一方で、輝元は上杉景勝討伐には、従兄弟であり吉川家当主の吉川広家や安国寺恵瓊(安芸国安国寺の僧侶。毛利氏に仕える外交僧)を派遣し、家康の行動に従うことも表明していた。輝元は三成、家康のどちらとも連絡を取り合い、うまく立ち回っていたと言えるだろう。
輝元は祖父の毛利元就と比べられ「凡将」の扱いを受けることが多いように思うが、関ヶ原合戦前夜の動きを見ていたら、なかなかの強かさである。とにかく、輝元がいやいや・しぶしぶ、西軍の総大将に祭り上げられたということはなさそうだ。
毛利氏も一枚岩ではなかった
ところが、毛利氏も一枚岩ではなかった。吉川広家は、家康派の武将・黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)と親密な仲であった。広家は黒田長政を介して、家康に書状を送り、輝元が大坂城に入った経緯を釈明していた。
広家によると、輝元が西軍に与したのは、安国寺恵瓊の独断であるとしている。輝元が謀反の意思を持っていないと吉川広家から聞いた家康は安心したようで「満足した」という書状を黒田長政に送っている(8月8日)。
だが実際には、西軍加担と大坂入城は輝元の意思であった。大坂に入った輝元は何をしたのか。
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