「将来、何になりたい?」聞く親が子を不幸にする訳 若者たちが活力をもつ社会にするために必要なこと
――教育的な場で、「被査定マインド」をやめる大切さについても強調されています。
「被査定マインド」というのは、どこかに権威のある「査定者」がいて、自分がこの社会のどのポジションに就くべきかを教えてくれるという思い込みのことです。
早く自分の「スコア」を知って、自分がどの程度の社会的地位を望んでよいのか、どの程度の経済的豊かさを期待してよいのか、どのレベルの配偶者で満足すべきなのかを、できるだけ早く知りたいと思う前のめりな気持ちのことを「被査定マインド」と僕は呼んでいます。
でも、そんな人間は何も創造することができない、社会を変えることも自分自身を変えることもできない。そんなこわばった生き方は正直言って「つらい」と思います。僕はそういう人たちに「それ、つらくないですか?」と訊いているだけです。つらければ、やめればいい。そんな生き方しなくても、心身がのびやかになる生き方はいくらでもあるんですから。
コミュニティーは「基本、持ち出し」
――成熟した大人が主導するのびやかなコミュニティーはどう形づくったらよいのでしょうか。
コミュニティーを作るときの注意点については、これまでも何度も書いてきましたが、それは「基本、持ち出し」ということです。
例えば、いまここで、コミュニティーを作って、相互支援をしたら便利だというような実利的な理由で設計されたコミュニティーはすぐに崩壊します。コミュニティーでは「出した分だけ回収できる」ということが起きないからです。
コミュニティーに参加している人たちはだいたい全員が「自分がこのコミュニティーに提供しているものは、コミュニティーから受け取っているものより多い」と思っています。自分は「持ち出し」だけれど、ほかの連中は「ただ乗り」していると(口には出しませんが)内心では思っている。
でも、コミュニティーというのは、「そういうもの」なんです。みんなが「自分だけが持ち出しだ。不公平だ」と思っている。それがデフォルトなんです。だって、その「持ち出し」分というのは「コモン」を創設する資源なんですから。
みんなが身銭を切って、自分の「持ち物」を差し出すことではじめて「公共」は立ち上がる。「公共」は自然物のようにあらかじめそこにあるわけじゃない。みんながちょっとずつ身銭を切ってはじめて「コモン」ができる。それを他の人たちも利用する。それを「ただ乗りしやがって」なんて思ってはいけません。他の人たちだってあなたのことをそう思っているんですから。でも、ひとりひとりが「差し出すもの」が多ければ多いほど、その「コモン」は豊かになる。
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