「団塊ジュニア」50歳会社員が直面した人生の岐路 「仕事に恵まれた時代」が終焉し見えてきた不安

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受験戦争真っ盛りの中学時代に通っていた進学塾では、長期休み中の徹夜特訓授業などで鍛えられた。都内の有名私大に100%進学できる附属校に合格。そのまま、エスカレーターで、有名私大に進学した。1991年4月のことだった。

日経平均株価の最高値となる3万8915円を記録したのは、バブル下の1989年12月末。太田さんが大学に入学した1カ月前の1991年3月から、日本経済は長期の停滞局面に陥り、少しずつバブルは崩壊を始めていた。今に至る「失われた30年」が足音を立てていた。

会社にはタクシーチケットが束になって置いてあった

大学では、本格的にオーケストラを演奏するサークル活動に没頭し、楽器の演奏に打ち込んだ。それ以外に、与えられた重要な役割があった。数年に1回、欧米に演奏旅行に行くほどの大学公認のオーケストラのメンバーは約200人。公演先をアレンジし、現地のプロモーターと交渉を重ね、観客を集める「海外演奏旅行の企画係」として、オーケストラの運営に関わった。

太田さんが大学1年時、3つ上にあたる4年生が就職した頃は、まだバブルの香りが残っていたという。「彼らは、バブル時代そのもの。会社にはタクシーチケットが束になって置いており、新卒でも使いまくれたなんて話はよく聞きました。ウチの会社(旅行会社)でもあったぐらいですから」

経営学のゼミに所属していたため、周囲は金融業界志望ばかり。太田さんも自然と金融を第1志望として、各金融機関を受け続けたものの、思わぬ苦戦が続いた。他に、運輸や鉄道、広告代理店なども受けたが、軒並み落ち続けた。「全然駄目でした。めちゃくちゃ苦労しました」と振り返る。

金融で唯一内定を得たのは「たくぎん」の愛称で親しまれた都市銀行の一つで、1997年に巨額の不良債権を抱えて経営破綻した北海道拓殖銀行だった。数日後には、山一証券が自主廃業、翌1998年には日本長期信用銀行が経営破綻した。バブル崩壊の残滓が形を見せ始めていた。

「行ってたら、どうなったかと思うと、正直ぞっとします」と吐露する太田さん。拓銀の内定を得たうえで、試しで受けた旅行業界では連戦連勝、向かうところ敵なしだった。

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