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38歳でデビュー「夏目漱石」逃げの姿勢で開けた道 「吾輩は猫である」に至るまでの波瀾万丈人生

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  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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ある日、漱石が養家を訪れたときには、こんなふうに言われた。

「もうこっちへ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うがいい」

漱石はこのときすでに、「なんでも長い間の修業をして、立派な人間になって、世間に出なければならない」という思いを強くしていた。

給仕になんてさせられてはたまらないと、実家に逃げ帰っている。大人の都合に振り回された漱石だった。

逃げ帰った実家から小学校に通った漱石は読書好きで、12歳のときには回覧雑誌に楠木正成を題材にした短編『正成論』を書いている。次第に「自分も文学をやってみよう」という思いを強くしていく。

西洋の小説を読むようになり、大学では英文科に進学。英文学を学んだうえで、英語で文学作品を発表して、世界を驚かせようと考えたのである。

しかし、英文学に関する資料は当時まだ少なく、漱石は苦戦する。結局、英文学が何たるかがわからぬまま卒業を迎えてしまう。それでも就職はしなければと、高等師範学校の英語教師になるも、どうにも教師には向いていない気がしてならない。

「教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました」

気分はつねに塞ぎがちだった

またこの頃から体調を崩し、肺結核の初期と診断される。やがて全快するが、大学同窓の正岡子規に宛てて「風流を楽しむような余裕などは全然ない」と書いているように、気分は塞ぎがちだった。

東京から逃げるように学校を辞職すると、松山や熊本に英語教師として赴任。その後、文部省より命じられたロンドン留学で、漱石はいよいよ鬱積(うっせき)を抑えられなくなった。

なにしろ「ロンドン留学」という華やかな響きとは裏腹に、その生活は悲惨そのもの。政府から支給された額では、ろくな下宿先にも住めず、食費も切り詰める必要があった。

また、欧米人にまぎれているうちに、窓に映る自分の姿が醜く見えてきたようだ。

「往来の向こうから、背が低く妙にきたない奴が来たと思ったら自分だった」

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【帰国してもストレスは募るばかり】

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