東急の五島慶太が計画した「札幌急行鉄道」の全貌 公設民営制度が進化、「構想復活」の可能性は?
また同年、東急は北海道への事業進出の足掛かりとするために定山渓鉄道を買収。定山渓鉄道線は、札幌市内の東札幌駅と定山渓駅の27.2kmを結んでいたが、最終的には定山渓鉄道と夕張鉄道を合併させ、札幌急行鉄道線と定山渓鉄道線を結ぶ連絡線を建設。札幌都市圏に私鉄路線ネットワークを構築し一体的な経営を行う計画も練られていたという。
翌年の1958年3月、東急の五島会長を代表とする発起人グループは札幌急行鉄道の地方鉄道敷設免許を国に申請。8月には札幌急行鉄道株式会社発起人準備会を開催した。新会社設立に向けての資本金は6億円。3億円を東急側が出資し、発起人を中心とした関係者で2億円、残る1億円を公募することになった。公募での資金調達に向けては、江別市では古田島市長を会長に据え市民からの出資を募るための全市的な組織も結成された。
さらに、1959年4月には町村金五新知事が登場。兄の町村敬貴氏は江別市内で町村農場を経営しており、札幌急行鉄道の発起人の1人でもあった。こうした町村知事の下、札幌急行鉄道の計画は北海道の重要な開発事業の一環として推進する体制も構築され、着工に向けて準備が進められていった。
しかし、1959年8月に五島会長が持病の糖尿病を悪化させ死去したことで、事態が一変する。
伊豆急行の建設費増大で札幌は計画中止
長男の五島昇氏が後を引き継いだとたん、金融機関の東急に対する態度が急に冷淡になり、父・五島慶太会長が存命中に行っていた出資、融資の約束が振り出しに戻ったうえ、1960年2月に建設が着工された伊豆急行線が想定外の難工事の連続で建設費が増大し東急の経営を圧迫し始めていた。伊豆急行線の建設費は当初の予定が約48億円だったのに対し、最終的には約100億円にまで増大した。
そうしたことから東急社内でも札幌急行鉄道からは手を引いて伊豆急行の経営に全力投球すべきという声が大勢を占めることになり、結果、札幌急行鉄道の申請は1960年6月に取り下げられ計画は中止された。
その後の北海道では、1969年に定山渓鉄道線が廃止されるが、旧定山渓鉄道線の一部路盤を転用する形で1971年に札幌市営地下鉄南北線北24条―真駒内間12.1kmが開業。札幌急行鉄道の札幌駅が予定されていた大通西4丁目付近には地下鉄大通駅が設置された。その後も地下鉄路線は延伸を続けた一方で、夕張鉄道線は1975年に廃止された。
1950年代に3万5000人余りだった江別市の人口はその後も順調に増加を続け、1990年代後半には12万人を超えた。近年でも人口は12万人前後で推移しているほか、地価も上昇を続けており2023年現在も新たな宅地造成が進んでいる。
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