日ハム新球場で激変「北広島市」地価上昇トップに 経済効果は10年で1500億円、若年層も流入へ
実は、北広島市は2022年の地価調査(基準地価)で、地価上昇率が住宅地、商業地ともに日本一となった。住宅地では共栄町4丁目の上昇率が29.2%にも達している。ボールパーク建設、開業への期待感が地価を吊り上げているのだ。それでも1平方メートル当たりでは3万8500円。道内の住宅地でもっとも高い札幌市中央区宮ヶ丘2丁目は35万5000円だから、ほぼ十分の一の水準と、まだお手頃である。
共栄町から今度は北広島市役所に立ち寄り、市のパンフレットをいただく。市役所内にも「世界がまだ見ぬボールパークをつくろう。」のポスターが掲示されている。さらに、パンフのなかにボールパークの紹介チラシと「ファイターズに関する市の取り組み」が書かれたチラシが挟まれていた。市を挙げて一連の構想をバックアップしていることが良く分かる。
駅までの道の途中、アパートの駐車場に道外ナンバーのクルマが何台も駐車されていた。「千葉」「湘南」「横浜」「八王子」の文字が確認できた。そう、この北の街は最近移住者が増えているのだ。最近のデータを確認すると、人口は平成19年の6万987人がピークで、直近(令和4年10月末)は5万7470人と減っているが、平成28年以降は6年連続で転入超過(社会増)となっている。市の関係者によると、比較的若い世代の移住者が増えているとのことだ。
ボールパーク周辺と市内の一部を歩いて取材した様子をお伝えしたが、あらためて北広島市がどんな街なのかを簡単に紹介しよう。
クラーク博士が「青年よ大志を抱け」と語った地
北広島市は札幌市に隣接する。市役所内には3人の偉大な先人の紹介パネルが陳列されているが、その一人が札幌農学校(現北海道大学)で教鞭をとったクラーク博士である。明治10年(1877年)、農学校での教職生活を終えたクラーク博士は、帰国にあたり札幌から約20キロ離れた島松(現在の北広島市島松)に立ち寄り、学生らと周囲を散策。いよいよ別れの時となり、馬上の人となった博士は教え子に「青年よ大志を抱け」の言葉を残したのである。
その後、広島県から約100人が入植して本格的な開拓が始まり、広島村(1894年)、広島町(1968年)を経て1996年に北広島市になった。昭和の後半以降は道内一極集中が進む札幌市のベッドタウンとして存在してきた自治体だ。クラーク博士の時代、開拓者によって育まれた地が札幌のベッドタウンとなり、そして150年近い年月を経て、新たな「北の聖地」に変貌していこうとしている。今、まさに転換期を迎えているわけだ。
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