本当に日本三大悪女?頼朝の妻「北条政子」の正体 源頼朝亡き後、幕府を取り仕切った「尼将軍」
「義高が殺されたことによって大姫が病となった。義高を殺した郎従(藤内)の行為が原因なのだ。主命を守るとはいいながら、内緒で、様子を大姫に知らせて、何事か計ればよかったのに」というのが、政子の藤内誅殺の論理であった。
殺された藤内が不憫でならない。このあたりに政子の「悪女」的要素を感じ取ることもできるが、子を想う親心の発露と取れないこともない。
頼朝の死後、その後継は嫡男・頼家となるが、頼家は遊興にひたり、御家人・安達景盛の妾を奪った。景盛は、当然だが頼家を深く恨む。それを聞いた頼家は逆恨みし、景盛を討とうとするのであった。
この愚行を強く諫めたのが、頼家の母・政子だった。「景盛を討つならば、まずは、わたしに矢を射ろ」とまで頼家に伝達し、制止したのである。政子の豪胆さを改めて感じさせてくれる逸話だ。
承久の乱で御家人たちを奮い立たせた政子の言葉
北条義時追討の命令が後鳥羽上皇から発せられ、承久の乱(1221年)が勃発しようというときも、政子は安達景盛に自らの言葉を代読させ、御家人たちを感奮させた。
「皆、心を1つにしてよくお聞きなさい。これが最後の命令です。頼朝様が朝敵を征伐して、幕府をつくって以来、朝廷の位にしても、褒美に与えられた領地にしても、その恩は山より高く、海より深いものでしょう。源氏3代将軍の残した鎌倉を守りなさい。ただし、朝廷側に付きたいと思う者は、この場で宣言しなさい」
政子の有名な言葉である。御家人たちは、涙を流し、政子の命令に従ったという。政子は鎌倉幕府の守護神といっていい存在だった。激しい気性の持ち主だったことは確かだが、思いやりもあり、度胸もあり、悪女とまで酷評するのは同意できない。
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