本当に日本三大悪女?頼朝の妻「北条政子」の正体 源頼朝亡き後、幕府を取り仕切った「尼将軍」

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政子が悪女と呼ばれる一因には、彼女の嫉妬深さが関係しているともされる。政子は、夫・頼朝の愛人・亀の前が囲われていた伏見広綱の邸を襲撃させている(『吾妻鏡』1182年11月10日条)。亀の前は命からがら、大多和義久の邸に逃れるのである。

頼朝は、亀の前以外にも女性がいた。鎌倉の御所に仕える女官・大進局(だいしんのつぼね)である。大進局は、文治2(1186)年2月に男子を出産する。この報に政子は激怒。本来ならば実施されるはずだった出産の祝いの儀式は、すべて省略されてしまうのだ。大進局は、5年後に鎌倉から追放。局が産んだ子も、出家させられ、京都・仁和寺に入ることになる。確かに政子の行動は、激しいものかもしれない。

しかし、政子の身になって考えれば、彼女のしたことは当然といえば、当然だったといえる。政子は元来、伊豆の小豪族の娘にすぎない。一方、頼朝は挙兵を成功させ、流人から武家の棟梁へ。頼朝と政子に身分的な格差が生まれていたのである。

頼朝には、政子以外に女性が複数いた。政子は頼朝の長男(源頼家)を産んでいたとはいっても、いつ正妻の座から引きずりおろされてもおかしくはなかったと言えよう。頼朝の女性問題に、政子が激しく介入したのは、自らの立場を守るためだったといえる。

木曽義仲の嫡男・義高をめぐる衝撃の出来事

『吾妻鏡』を読んでいて、筆者が政子の激情に震えたのは、同書の元暦元(1184)年6月27日条に掲載されている逸話である。

頼朝は、源(木曽)義仲の嫡男・義高を、自らの娘・大姫(母は政子)とめとらせていた。だが、義仲は頼朝軍に攻められ、戦死。これまた後難を恐れた頼朝が義高を殺すのであった。義高殺害を知った大姫は衝撃のあまり、病床につく。

政子は義高を殺した頼朝を強く責める。窮地の頼朝は、義高を殺した藤内光澄を斬首するのだ。娘を想う親心。それが、最終的には主命に従った1人の武士の命を奪ったのである。

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