本当に日本三大悪女?頼朝の妻「北条政子」の正体 源頼朝亡き後、幕府を取り仕切った「尼将軍」

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頼朝に敵対した源義経の愛妾・静御前が鎌倉に連行され、鶴岡八幡宮において舞を命じられる。静御前はその舞の際に義経を慕う歌を歌うのであった。舞いに多くの者が感激している中、怒りに震えたのが、頼朝だった。

「叛逆した義経を慕う歌を歌うとは何事であるか」と怒る頼朝。夫の怒りを見て、妻の政子はこう告げた。

「貴方(頼朝)が流人として伊豆にいるとき、私たちは恋愛関係となりました。しかし、父・北条時政は平家を恐れ、私を貴方に会わせないようにするため、邸に閉じ込めてしまいました。それでも私は、貴方を恋しく思い、邸を抜けだし、闇夜のなかを迷いつつ、激しい雨をしのぎながら、貴方のもとに駆けつけたのです。

また、貴方が平家に対し挙兵後(1180年)、戦場に出られたときも、1人伊豆山に留まっておりました。貴方の安否もわからず、日夜、魂を消すほどの想いでした。そのときの悲しみを思えば、今の静は、義経を慕う貞操堅固な女性というべきでしょう。ほめてやってください」

父の監禁から逃れ、愛する人(頼朝)のもとに赴く政子。恋は盲目と言うが、政子もそれに近い状態だったのだろう。

その後も静御前を思いやった北条政子

さて、政子の諫言により、頼朝も怒りをおさめ、しばらくして、静御前に御衣を与えることになる。政子は、哀れな境遇に陥った1人の女性を弁護したのだ。

静御前は、1186年閏7月に、義経の子(男子)を産むが、後難を恐れる頼朝によって、その子は殺害されてしまう。その際も、政子は静御前の子を殺さないように頼朝に嘆願している。静御前が鎌倉から京都に戻るときも、静御前のことを思いやって、多くの贈り物を与えている。これらの逸話を見ただけでも、政子は悪女どころか、人情家だったと言えよう。

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