小倉「駅ビルからモノレールが飛び出す街」の変遷 今はなき路面電車網が産業の発展を導いた

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また、現在の北九州市を構成する門司・戸畑・八幡・若松にも企業の大工場が次々と進出した状況を受けて、福岡県議会では北九州一大都市論が提起されるようになった。これは、冒頭で触れた5市合併の萌芽でもあった。

第1次大戦後の小倉は工業化が顕著だったことから、工場用地が不足した。そのため、工場用地を確保する埋立地の造成計画が続出する。とくに、小倉鉄道は積極的に埋立事業に取り組んでいる。

昭和に入ると、大戦景気の反動から金融恐慌が発生。これにより、一大財閥を形成していた鈴木商店や渡辺財閥が破綻する。財閥系企業が多く進出していた小倉も無傷ではなく、とくに鈴木商店の破綻は地域経済に大打撃を与える。また、小倉港の埋め立てを主導していた小倉鉄道も事業から撤退した。

不況で揺れる小倉に、救世主も現れる。東京からの陸軍造兵廠移転が北九州経済を浮揚させるきっかけとなり、小倉市も失業者への対策として道路工事を実施。こうして活気を取り戻しつつあった小倉市は、市長を退任したばかりの神崎慶次郎と若松の実業家だった大貝潜太郎、呉服商の住岡由太郎が共同出資で井筒屋百貨店をオープンした。開店にあたり、九軌にも井筒屋への出資を呼びかけたが、九軌は松方幸次郎の息子で後任社長の松本枩蔵による乱脈経営がたたって出資できる余力なかった。

百貨店激戦区へ発展

井筒屋のオープンは小倉を活性化させたが、他方で巨大資本の進出を恐れた地元商店街の反発を招く。地元で呉服・食堂を経営していたかねやすは、店舗を拡張して井筒屋に対抗。長崎を地盤にしていた百貨店・玉屋も菊屋デパートの商号で進出し、小倉の中心部は百貨店の激戦区と化した。

井筒屋
小倉の井筒屋百貨店(筆者撮影)

戦時中の1943年には、九軌を中心に5私鉄が合併して西鉄が発足。西日本鉄道という社名は博多湾鉄道汽船社長の太田清蔵が命名したとされる。そこには、将来的に九州のみならず広島付近まで鉄道網を拡大することが意図されていた。

最盛期の九軌は福岡市まで鉄道網を拡大するという野心的にも思える計画を進めていたが実現していない。なにより、西鉄は九州全域どころか福岡県外に鉄道路線を延伸することはなかった。

戦後は復興から高度経済成長へと全国的に経済が伸長した時期だったが、小倉の経済発展は伸びを欠いた。軍に依存した経済構造だったことも一因だが、昭和30年代から日本全体で進められたエネルギー革命によるところが大きい。

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