今や「子供」は、単にコストと手間がかかるだけでなく、教育を通じた競争に親を巻き込む一種の「地位財」(所有者の経済的力を顕示する財)として、親の家計を圧迫する存在でもある。
社会として人口減少にどの程度まで歯止めをかけるべきかについては議論があろうが、労働力年齢の人口が極端に減るような「少子化」について、何らかの対策が必要であることについては、おおむねコンセンサスが取れているように思う。
そして、少子化への対策として、結婚の促進はもう機能しないし、機能させようとすべきでもない。
そもそも、「結婚」といった特定のライフスタイルを社会が個人に押しつけようとすることがすでに間違いだ。架空のオフィスを想像されたい。このオフィス内で、上司の立場にある人間が「俺の(私の)個人的な意見だけど、やっぱり結婚して家庭を持つのがいいと思う」と口にするのは、すでにコンプライアンス的に「アウト!」だと知るべきだ。
個人の意見として雑談で言うのもダメだ。それを聞いた立場の弱い社員が精神的圧迫感を覚えるかもしれないからだ。どうしても個人の「意見」を述べたければ、オフィスから離れた場で家族制度のあり方を論じる論文でも書くしかない。
「ハラスメント」のリスクを警戒する上記のような考え方は行きすぎに思えるかもしれないが、読者は自らの身を守るために、この種の後天的警戒心を養っておくほうがいいと申し上げておく。
したがって、社会として結婚を促進するためにコストをかけるような施策はすべて「アウト!」となる運命にあるだろうし、それでよい。配偶者控除も、第3号被保険者も、制度として丸ごとなくなるのが正しかろうし、配偶者の相続上のメリットは少なくとも縮小されるべきだろう(高齢婚活者にとっては、結婚後に遺言を書く自由度が生じるだろうから、むしろ好都合ではないだろうか)。
若者だけでなく、社会全体に活力をもたらす可能性
日本が社会として本気で少子化対策を行いたいなら、「子供に対して」現金が給付されるような(例えば毎月5万円)「子供版ベーシックインカム」を設け、加えて、公立の学校教育を保育園から大学院まで無償化するくらいの「子供に対する投資」を行うことが望ましい。国家として「倍増」すべきは、防衛費(どうせ多くをアメリカに払う)よりも教育費(日本人の人的資本を高める)だろう。
そして、「結婚などしなくとも、子供をもつことが好ましいのだ」という社会的雰囲気づくりが必要だ。例えば、「でき婚」(子供ができてから行う結婚の意味)という言葉が死語となるような社会が望ましい。
このような社会になるならば、自分の子供に100%の自信をもって、「結婚しなくていいけれども、子供をもつのはなかなかいいぞ」と言えるようになる。現時点では、「子供」は、もつと張り合いがある「授かるとありがたい存在」だが、ある程度以上の経済力がなければ十分に楽しめない「贅沢品のような存在」でもあるのが現実ではないか(息子よ、娘よ、君たちは実に可愛い贅沢品である!)。
結婚と家を解体し、子育てと教育のコストを平等化することは、経済格差の固定化に対する、若者世代の抵抗運動でもある。また、結婚という装置を解体して、すべての個人が恋愛市場の商品となり続ける状況は、若者だけではなく、大人たちをも活性化させて、社会に活力をもたらすにちがいない。
結婚を「オワコン」にすることは静かな革命だ。追い風が吹いている。さあ、闘え!
(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承下さい)
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