「和田義盛」鎌倉支えた男なのに北条が滅ぼした訳 「鎌倉殿の13人」の1人だった有力御家人の最期

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和田塚
鎌倉にある和田合戦の戦死者を葬ったと伝わる「和田塚」(写真:Photo_N/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。13人のうちの1人として登場する「和田義盛」は、源頼朝が平家打倒のために伊豆で挙兵したときから、頼朝を支えた忠臣です。ところが、鎌倉幕府2代執権である北条義時は和田義盛を滅ぼします。その背景には何があったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎さんが解説します。

源頼朝の平家打倒の挙兵に参加して戦功を立てた

元久2(1205)年閏7月、江間(北条)義時は、父・北条時政を伊豆に追放し、北条家を継承した。

時政は、嫡男の北条宗時が石橋山の戦い(1180年)で戦死した後、スムーズに「次男の義時を当主に」と考えていたのではない。北条氏の苗字の地「北条」(静岡県伊豆の国市)の隣地である「江間」を義時は父から与えられていた。つまり、義時は本家である北条家から出されて江間家を継いでいた。

義時は北条家の正当な後継者ではなかったわけだが、その義時が一発逆転、北条氏の惣領となることができたのは、父を追放したからであった。

さて、北条氏は梶原景時、比企能員、畠山重忠といった有力御家人を排除、打倒してきた。では、義時が北条家を継承してから、最初に潰した大物御家人は誰であろうか。それは、和田義盛である。

和田氏は三浦氏の一族で、根拠地は相模国(神奈川県)和田であった。源頼朝の平家打倒の挙兵に参加し、戦功を立てたこともあり、侍所の別当(長官)に就任する(1180年)。

義盛はその後も、平家追討戦や奥州藤原氏討伐にも加わり、活躍。頼朝死去後は「13人の合議制」に列するまでになる。義盛自身、頼朝死後は、北条氏とともに、前述した有力御家人を打倒する側に回ってきた。

梶原景時を追い落とすときなどは、煮え切らぬ態度を示す宿老の大江広元を「景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と叱り飛ばすほどの急先鋒であった。しかし、そんな義盛が打倒される側に回るときが来る。それが建暦3(1213)年5月に起こった「和田合戦」である。

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