京都人特有の「あうんの呼吸」が生まれたワケ 京都の人が持つ「格式と特権意識」のルーツとは

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天正地割が行われなかった区画(画像:宝島社)

この三条通と四条通の間の暗黙の格式は、実は地図を見ればわかる。御土居を造営した秀吉は、大規模な都市改造も行った。秀吉はより多くの人々が京都に居住できるように天正地割と呼ばれる区画の変更を行った。それまで正方形だった区画の真ん中に南北に道を通して、区画を短冊形に変えたのだ。ところが、江戸時代の絵図を見ると正方形の区画が残っているエリアがある。それが祇園祭で山鉾(やまぼこ)巡行が行われる三条通と四条通の間のエリアだ。具体的には、北が姉小路、南が松原通、東が東洞院通、西が油小路通に囲まれたエリアである。

貞観11(869)年にはじまったとされる祇園祭はもともと官祭(朝廷が行う祭事)の性格が強いものだったが、応仁の乱(1467〜1477年)後の明応9(1500)年には、町衆によって行われるようになった。

正方形の区画が残されたエリア

16世紀後半になると、祇園祭の山鉾の組み立てや費用を負担する町組が組織されるようになった。こうして鉾町や寄町と呼ばれる自治組織が誕生した。現在でも66ある山鉾はそれぞれ町ごとに管理・運営されている。天正地割で、正方形の区画が残ったエリアは町衆による自治が発展していたエリアであり、秀吉もその意向を無視できなかったのである。

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天正地割によって正方形だったエリアの真ん中に通された道のエリアには、「新参者」が居住するようになった。一方で、正方形の区画が残されたエリアは、何代にもわたって京都に住み続けた人々が暮らすエリアとなる。

こうしたことから、正方形が残された区画は、格式が高いエリアとなっていった。現在も地価という形で明確に差が出ているのはこのためだろう。

「洛中的中華思想」は、長い歴史を持つ京都において、数多くの戦乱をくぐり抜けながら、先祖から受け継いだ伝統を代々守り続けた人々の自負から生まれたものといえる。

青木 康 杜出版代表取締役

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あおき やすし / Yasushi Aoki

埼玉県生まれ。学習院大学法学部卒業。神社専門編集プロダクション・杜出版株式会社代表取締役社長。全国の神社をめぐり、地域ごとに特色ある神社の信仰や歴史学の観点から神社を研究し、執筆活動を行っている。主な編著に『完全保存版! 伊勢神宮のすべて』『カラー版 日本の神社100選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド』『宝島社新書 カラー版地形と地理でわかる神社仏閣の謎』(いずれも宝島社)などがある。

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