2005年4月の年次教書演説でプーチン氏は、1991年末のソ連解体について「20世紀最大の地政学的悲劇」と述べたが、この言葉の裏には、軍事的手段を使ってでも、ソ連崩壊で失われた「歴史的ロシア」を取り戻したいというプーチン氏の強烈な復讐心が潜んでいたのだろうと今思わせられる。
プーチン氏の対外路線激変の一端に西側が初めて気づいたのは、ようやく2007年2月になってからだ。それは、有名な2007年の「ミュンヘン演説」からだ。アメリカ一極支配体制やNATO拡大を痛烈に批判した演説にアメリカやヨーロッパは驚き「新冷戦の始まり」を告げるものと受け止められた。
しかし、今回のイラリオーノフ氏らの証言でわかったのは、この演説の時点ではすでに、プーチン氏の大掛かりな軍事マシーンが動き出していた、という事実である。始まりが目前に迫っていた、その復讐劇の舞台の間口・奥行きの大きさにアメリカとヨーロッパは気づいていなかったのだ。
2008年NATOサミットでのプーチン演説
このアメリカとヨーロッパの見落としを象徴したのが、翌2008年4月にルーマニアのブカレストで開かれたNATOサミットだ。出席したプーチン氏は、ロシア系国民が多数いるウクライナについて「NATO加盟問題が発生すれば、国家としての存立が危機を迎える」と脅迫的言辞を弄したが、これに対してNATO側から強い反発は出なかった。イラリオーノフ氏はこの腰の引けた対応を見て、プーチン氏が旧ソ連地域での「行動の自由」を感じたと指摘する。
NATOはこのサミットでロシアを刺激しないことを優先し、アメリカが強く推していたウクライナ、ジョージアのNATO準加盟を回避した。しかし、ロシアは4カ月後の2008年8月、ジョージアに侵攻し、6年後の2014年にはウクライナに侵攻してクリミアを軍事併合した。この間、アメリカとヨーロッパはロシアの行動の後追いに終始。制裁は課したものの、半分及び腰だった。
プーチンの本音を見抜けていなかったアメリカとヨーロッパの実態を象徴するエピソードがある。2018年5月にアメリカの有力シンクタンクである大西洋評議会(アトランティック・カウンシル)に、アメリカのウクライナ専門家であるウォルター・ザリスキー氏が寄稿したことだ。同氏はアメリカ国務省幹部の話として、プーチン氏の2008年のブカレスト演説を聞いて、小国のジョージアは危ないと思ったが、まさかウクライナについてはロシアが公然と侵略するには大きすぎると思っていたとの当時の話を紹介している。
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