イスラムが求めるのは「神とともにある自由」 内藤正典・同志社大学教授に聞く(後編)

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最初に行動したのが若い女子だった。1989年、いっさいの宗教的シンボルを排除する公立学校にスカーフを着用して通い始めた。スカーフを着用した女子は、受け身ではなく、積極的にライシテに挑んだ。だが、学校はスカーフ着用を認めなかった。その対応策として、フランス政府は2004年から法律で公立学校に通う生徒がスカーフやベールなどを着用することを厳格に禁止した。

2011年の9.11テロ以降は、ごく少数のイスラム原理主義者と普通のイスラム教徒を同じ「テロリスト」と見なす欧米のプロパガンダが広まり、嫌イスラム感情に拍車がかかる。こうした中、パリの「わたしはシャルリ」という行進にスカーフを被った移民が参加しているのは踏み絵を踏まされているような気持ちだろう。

「悪意ある挑発をした人間は罰せられない」

2006年FIFAワールドカップの決勝戦で、サッカーのスター選手ジネディーヌ・ジダンがイタリア代表のマルコ・マテラッツィに頭突きを食らわせて退場になった。サッカー人生の最後になぜそんなことをしてしまったのか。

フランスの多くのメディアが、人種差別的な発言をされたのだろうと書き立てた。それは違う。ジダンも何を言われたのか、問い詰められても答えなかった。そのとき、私はイスラム教徒たちに聞いてみた。皆「何を言われたかは想像がつくが、口にはできない」と答えた。イスラム教徒が瞬間的に暴力も辞さない怒りを爆発させるのは、女性の親族を性的な表現で冒涜されたときだけだ。これは最大の侮辱であり、そういうことをイスラム教徒にすると、刃傷沙汰は避けられない。

ジダンがその後、テレビに出てなんと言ったか。「サッカーファンの子ども達に謝りたい」と言った。しかし、それでは「頭突きを食らわせたことを後悔しているか」と聞かれて、「いつも悪意ある挑発をした人間は罰せられない。しかし、暴力で応じた人間は必ず罰せられる」と答えた。当時の大統領ジャック・シラクは、その後非常に気を遣って、彼を官邸に招いて、労をねぎらったりした。

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