簡単すぎる本は退屈だが、難解すぎる本は手に負えない。このあたりは水泳の息つぎに似ていて、文章を読むことが水中にもぐることだとすれば、浅瀬でちゃぷちゃぷやっていても面白くないが、いきなり大海に放りこまれれば、おぼれ死んでしまう。改行の頻度、会話文の量、句読点の量、さまざまな側面で難易度を判断している。
自分の手にあまる本を読もうとすると活字におぼれる感覚がある。話の内容をまったく理解できない。見たこともない専門用語が説明なしに使われている。知らない偉人の名前が次々と出てくる。知らないのに偉人だと分かるのかよ、という話ではあるのだが、文章のトーンから著者がその名前を偉大なものとして扱っていることだけは伝わってくる。
ある本では、死んだ西欧の偉人が次々と召喚されて、観念のバトルを繰り広げていた。大変な空中戦を繰り広げていることは分かるのだが、今の自分には遠すぎて豆粒にしか見えない。前提知識を身に付ければ読めるのかもしれない。
多読は無条件によいことでも誇るべきことでもない
私は、自分のかかえる問題を解決したいと思う。しかし、何が問題なのかすら理解することができていない。まずは問題を言語化することからはじめる必要がある。図書館に通いはじめる前の不要な切迫感は薄れてきた。ある程度、腰を据えて読書と思考に取り組んだほうがよさそうだ。
また、過去に読んだ本を図書館で見かけて読み返し、内容の大半を覚えていないことに驚いた。当時は読み飛ばしていたのか、そもそも一度読んだくらいでは本のすべてを記憶することなどできないのか。面白く感じた本こそ、しつこく読み返すべきだと感じた。
多読と並行して、重要だと感じた本は購入して再読する。多読だけでは問題もありそうだ。冊数が増えるのは無条件によいことではなく、誇るべきことでもないのだろう。もちろん娯楽で読むならいいが、今の自分を変えたくて読んでいるのに、何も変わらないまま百冊千冊と数が積み上がっているならば反省するべきだ。読書という行為は基本的に他人事だし、うまく使うには常に逆向きの力をかけて、それを自分の問題に引き戻していかないとまずい気がする。
(第4回「2000連休で「ネット中毒」突き詰めた男が見た真実」5月15日配信に続く)
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