公武政権を実現。専制君主であると同時に、一流の文化人であった。
日本の中世に登場する天皇で、後醍醐天皇(1288〜1339年)は後鳥羽天皇(1180〜1239年)とともに歴史に大きな足跡を残している。
後鳥羽天皇は鎌倉幕府と対立し兵を挙げたものの敗れ(承久の乱)、隠岐に配流され亡くなった。一方の後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒した後、天皇親政に乗り出したが(建武新政)、足利尊氏と対立。政権は崩壊し、大和の吉野に逃れ、そこで亡くなった。
両天皇には共通する点が多い。第1に動乱の時代に変則的に即位したこと、第2に鎌倉幕府を倒そうとして失敗し、配流の憂き目に遭ったこと。第3にどちらも天皇の系譜としては傍流であったことである。
反対に決定的に異なるのは、後鳥羽天皇が京都帰還を懇望しながら果たせなかったのに対し、後醍醐天皇は宿敵である鎌倉幕府を倒した点である。
後醍醐が生きた時代、2度の蒙古襲来(1274年と1281年)を機に幕府の権威は衰え出し、中世社会は揺るぎ始めていた。
朝廷内の内紛に端を発す大覚寺統、持明院統の2つの系統がある中、皇位継承のために幾多の困難と試練を乗り越えなければならなかったが、偶然と幸運を巧みに捉え、公武の信頼を受けて天皇の座に就いた。幕府との協調を旨とする父・後宇多上皇と確執を続けながらも、京都支配で実績を示し、政治家としての自信をつけていった。
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