トルコは、中東では経済や社会の「近代化」にいち早く成功した国家である。その中で目を引くのが、建国に際して取り入れられた政教分離である。とはいえトルコはムスリム(イスラーム教徒)が圧倒的多数を占める社会である。そのため政教分離の導入は、国内にある種の矛盾を生むことになる。そして、トルコの政教分離にはその歩みの過程でさまざまな変化があった。
「瀕死の病人」から再生を果たす
19世紀から20世紀にかけて、欧州列強の勢力争いに巻き込まれたオスマン帝国は、その領土を減らし、国家財政は破綻したため、「瀕死の病人」と揶揄された。第1次世界大戦で敗北し、1918年にムドロス休戦協定、20年にセーヴル条約が締結され、オスマン帝国は多くの領土を失った。かろうじて確保したアナトリア半島(現在のトルコ共和国の領土)にもイギリス、フランス、イタリア、ギリシャが兵を進め、とうとう病人の命運も尽きたかに思われた。
そこに登場したのがムスタファ・ケマルであった。抵抗運動を組織し、最終的にイギリス、フランス、イタリアと停戦、ギリシャを駆逐する。その結果、セーヴル条約に代わるローザンヌ条約の締結にこぎ着け、アナトリア半島の確保に成功する。23年10月、オスマン帝国に代わるトルコ共和国が建国され、ケマルが初代大統領に就任する。
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