幕末開港期の金流出と、その後の大幅なインフレーションは、幕藩体制の限界を象徴的に表す事件である。その原因を貨幣制度の特殊性に求めることはたやすい。一方で、このような特殊性を生んだ原因を探ると、意思決定の失敗に関する現代的な課題が浮かび上がる。
まずは問題の経緯から説明しよう。日米和親条約(1854年)で約定された通貨の具体的な交換比率交渉の結果、銀貨に関する同種同量交換、つまりは金銀の含有量が同じになるように貨幣を交換するというルールが合意された(56年)。
ここでのポイントは三つ。当時の国際取引は主に銀によって行われていたこと。日本国内では金属そのものの価値と貨幣としての価値が無関係になっていたこと。その結果として、海外と国内で金銀の交換比率が大幅に異なっていたことである。
同時期に日本で主に流通していた一分銀(天保一分銀)3枚と1ドル銀貨(メキシコ銀貨)の銀含有量はほぼ等しい(実際には一分銀3枚の銀量のほうが多いが、以下の議論に定性的な差は生じない)。また当時の日本の貨幣制度では4分=1両(天保小判1枚)である。
この記事は有料会員限定です。
東洋経済オンライン有料会員にご登録頂くと、週刊東洋経済のバックナンバーやオリジナル記事などが読み放題でご利用頂けます。
- 週刊東洋経済のバックナンバー(PDF版)約1,000冊が読み放題
- 東洋経済のオリジナル記事1,000本以上が読み放題
- おすすめ情報をメルマガでお届け
- 限定セミナーにご招待
無料会員登録はこちら
ログインはこちら