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信長も認めていた「ビタ一文」が持つ通貨価値 解説(2) 中世・近世のゼニ事情

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ビタの使用を初めて公認したのは織田信長(JR岐阜駅前の信長像)(読売新聞/アフロ)

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ベタな大阪弁で、「ビタ一文(もん)まかりまへん」という表現がある。ごくわずかな金額(ビタ一文)もまけることはできない(安くできない)という意味だ。ではそもそも「ビタ」と「一文」は何か。

辞書をひもとくと、戦国時代から江戸時代の初めに当たる16〜17世紀に、中国から輸入された偽造銭や摩滅・欠損が甚だしい粗悪な銭(ぜに)がビタと呼ばれ額面より減価された、とある。前近代の日本では、金属(主に青銅)製の円形で中央に穴がある塊を銭と呼び、通貨として使った。中世日本ではどの銭も原則として額面が1文とされた。つまり文とは通貨単位である。

しかし低品質・低価値の銭という従来持たれていたビタのイメージは、近年の研究によって修正を迫られている。

ビタは記録上、1570年代、すなわち織田信長が活躍した時期に登場する。同じ頃の記録によると、従来1枚1文として使われた銭(基準銭)以外がビタとされ、さらに次のような銭が除かれて流通した。それは、端が欠損した銭、文字がない銭、明が発行した洪武通宝の模造銭(鹿児島県で模造されていた)、鋳造の仕上がりが悪い銭だ。

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