多くの人が勘違いしている「生きづらさ」の真実 「自分を大切にすること」を今すぐやめよう

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たとえば明日の朝起きて、もし今までの記憶がすべてなくなっていたとしたら、どうでしょう。今あなたが思っている「私」は、そこに存在しないはずです。あるいは、明日まわりの人間がすべて、あなたのことを別人のAさんだと言い出したら、どうしますか? あなたはAさんとして生きるか、精神を病むか、自死するしかなくなるはずです。

「私」とは何か

大げさな話ではありません。そのくらい「自分」とは、もろいものです。
私は「私」であるという記憶。そして、他者から「私」だと認めてもらうこと。この2つのどちらか、あるいは両方を失ってしまったら、自分であることの根拠は消え、「私」はその場で崩れてしまいます。

ふだん、あなたが「私」と呼んでいるものは、突き詰めれば、「記憶」や「人とのかかわり」で成り立っている存在にすぎないのです。その大した根拠もなく存在する不確かな「私」を大切にするとは、何をしたいと言っているのだろうと私は思うのです。

「でも、自分はここにいるじゃないか!」と言う人に、「その‟自分”とはなんですか?」と尋ねると、名前や性別、年齢、性格、職業、家族、住所などについて話し始めます。しかしそれは、その人が「その時点」で持っている属性にすぎません。それらをすべて取り払ってしまったら、何が残るのかということです。

人の存在は、誰もが生まれた瞬間に「他人に着せられた服」をそのまま着続けているようなものです。生まれる日も、場所も、性別も、体の特徴も、自分で選んだわけではありません。名前も、親に決められました。その親すら、たまたま「親」になっただけです。そもそも、自分から「この世に生まれたい」と希望して生まれてきたわけでもありません。

もし仮に、自分で望んで生まれたのであれば、生まれる日も、場所も、親も、自分で思いどおりに決められ、「望んだとおりの自分」になっているはずです。でも、「私は、何もかも望みどおりの自分だ」と言える人がいるでしょうか。

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