伊達政宗から学ぶ「他者との距離の取り方」の妙 領地没収、切腹を免れた死装束パフォーマンス

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◆ タイプ 02 伊達政宗
情報を分析し、相手と適切な距離を保つ

「都から遠く離れ、何につけても遅れていた東北に、茶道をはじめ文化と教養をもたらしたのが伊達政宗です。天下を狙った野心家と言われ、時に疑心暗鬼な上司から疎まれながらも、結果的には徳川3人の将軍に仕え、長い期間活躍しました。

子どもの頃、天然痘の感染で右目の視力を失い、武士として致命的なハンデを負いながら、名を成した理由のひとつが、人との距離の取り方だったと思います。

例えば、豊臣秀吉の小田原攻めに、政宗は遅れてやってきます。これは秀吉の傘下に入るか否かを思案していたからです。

これは、普通なら領地没収、切腹でもおかしくありません。でも、その時の格好が白装束。最初から死装束で現れて、秀吉に謝罪をするというパフォーマンスをしたのです。秀吉にはこの演出が効くだろう、と判断してのこと。相手の性格を判断し、自身の覚悟を伝えたことで、事なきを得ました」

(イラスト:ゴトウイサク)

「また、自分が殺されるかどうかという時にも、政宗の分析・判断力が発揮されます。家康が仙台へ出陣しようとし、政宗に危機が迫りました。

そんな政宗の元に、家康の愛妾・於勝(おかつ)から『今ならまだ間に合うから駿府へ出てくるように』という旨の手紙が届きます。家臣からは反対されましたが、政宗は熟慮し、確かに今攻められる具体的な理由が、自分には思い当たらないと、家康のもとへ参じました。

相手を知り冷静に距離を保つ

政宗が謀叛を企てている、と息子の松平忠輝(六男・政宗の娘婿)から聞いていた家康は、わざわざ来てくれた政宗のことを信じ、またここでも危機を乗り越えたのです。

政宗は、相手を知り冷静に距離を保つためにもマメに言葉を交わし、機会あるごとに手紙を書き、進物も送るなど、あらゆる形で情報収集をしていました。とくに手紙については、当時大名は代筆で書くことが多かったのですが、政宗は必ず自筆で書いていました。以前から於勝とも文を送り合う仲だった(※)からこそ、危機に面して有益な情報が届いたのです」

※於勝(家康の側室・英勝院)の産んだ家康の末子・市姫は、政宗の嫡男・虎菊丸(のち二代藩主忠宗)と婚約していたが、市姫は4歳で夭折。しかし、政宗は於勝との文のやりとりは続けていた。

「自分がどう思っているかを誰かに伝えれば、それが噂となり、他にも広まっていく。今でいう宣伝も上手かったのだと思います。コミュニケーション能力が高かったのでしょうね。

今の時代、情報はいくらでも手に入れられますが、入手した時点で満足し、わかった気になっていないでしょうか? さまざまな情報を手に入れたら、しっかり分析をし、的確にアウトプットする。それが政宗の処世術だったのです」

後編では、坂本龍馬、渋沢栄一の生き方をご紹介します。(※19日に配信予定)

(文/牛丸由紀子 イラスト/ゴトウイサク)

加来耕三(かく・こうぞう)
1958年大阪府出身。奈良大学文学部史学科卒業後、学究生活を経て、1984年より奈良大学文学部研究員に。現在は大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として独自の史観に基づく著作活動を行っている。『鎌倉殿を立てた北条家の叡智』(育鵬社)、『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学』(日経BP)など著書も多数。BS11『偉人・素顔の履歴書』などテレビ・ラジオ番組の出演・監修も多い。
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